爵家の構内《かまへうち》にて、三棟《みむね》並べる塗籠《ぬりごめ》の背後《うしろ》に、桐《きり》の木高く植列《うゑつら》ねたる下道《したみち》の清く掃いたるを行窮《ゆきつむ》れば、板塀繞《いたべいめぐ》らせる下屋造《げやつくり》の煙突より忙《せは》しげなる煙《けふり》立昇りて、折しも御前籠《ごぜんかご》舁入《かきい》るるは通用門なり。貫一もこれを入《い》りて、余所《よそ》ながら過来《すぎこ》し厨《くりや》に、酒の香《か》、物煮る匂頻《にほひしき》りて、奥よりは絶えず人の通ふ乱響《ひしめき》したる、来客などやと覚えつつ、畔柳が詰所なるべき一間《ひとま》に導かれぬ。

     (四) の 二

 畔柳元衛《くろやなぎもとえ》の娘|静緒《しずお》は館《やかた》の腰元に通勤せるなれば、今日は特に女客の執持《とりもち》に召れて、高髷《たかわげ》、変裏《かはりうら》に粧《よそひ》を改め、お傍不去《そばさらず》に麁略《そりやく》あらせじと冊《かしづ》くなりけり。かくて邸内遊覧の所望ありければ、先《ま》づ西洋館の三階に案内すとて、迂廻階子《まはりばしご》の半《なかば》を昇行《のぼりゆ》く後姿《うしろすがた》に、その客の如何《いか》に貴婦人なるかを窺《うかが》ふべし。鬘《かつら》ならではと見ゆるまでに結做《ゆひな》したる円髷《まるわげ》の漆の如きに、珊瑚《さんご》の六分玉《ろくぶだま》の後挿《うしろざし》を点じたれば、更に白襟《しろえり》の冷※[#「※」は「豐+盍」、123−12]《れいえん》物の類《たぐ》ふべき無く、貴族鼠《きぞくねずみ》の※[#「※」は「糸+芻」、123−12]高縮緬《しぼたかちりめん》の五紋《いつつもん》なる単衣《ひとへ》を曳《ひ》きて、帯は海松《みる》色地に装束《しようぞく》切摸《きれうつし》の色紙散《しきしちらし》の七糸《しちん》を高く負ひたり。淡紅色《ときいろ》紋絽《もんろ》の長襦袢《ながじゆばん》の裾《すそ》は上履《うはぐつ》の歩《あゆみ》に緩《ゆる》く匂零《にほひこぼ》して、絹足袋《きぬたび》の雪に嫋々《たわわ》なる山茶花《さざんか》の開く心地す。
 この麗《うるはし》き容《かたち》をば見返り勝に静緒は壁側《かべぎは》に寄りて二三段づつ先立ちけるが、彼の俯《うつむ》きて昇《のぼ》れるに、櫛《くし》の蒔絵《まきゑ》のいと能《よ》く見えければ、ふとそれに
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