つ音なへば、応ずる者無くて、再びする時聞慣れたる主《あるじ》の妻の声して、連《しきり》に婢《をんな》の名を呼びたりしに、答へざりければやがて自ら出《い》で来て、
「おや、さあ、お上んなさい。丁度好いところへお出《いで》でした」
 眼《まなこ》のみいと大くて、病勝《やまひがち》に痩衰《やせおとろ》へたる五体は燈心《とうしみ》の如く、見るだに惨々《いたいた》しながら、声の明《あきらか》にして張ある、何処《いづこ》より出《い》づる音《ね》ならんと、一たびは目を驚かし、一たびは耳を驚かすてふ、貫一が一種の化物と謂《い》へるその人なり。年は五十路《いそぢ》ばかりにて頭《かしら》の霜繁《しもしげ》く夫よりは姉なりとぞ。
 貫一は屋敷風の恭《うやうやし》き礼を作《な》して、
「はい、今日《こんにち》は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方《こちら》様へ伺ひましたでございませうか」
「いいえ、お出《いで》はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸《かか》りたいと申してをりましたところ。唯今《ただいま》御殿へ出てをりますので、些《ちよつ》と呼びに遣りませうから、暫《しばら》くお上んなすつて」
 言はるるままに客間に通りて、端近《はしちか》う控ふれば、彼は井《ゐ》の端《はた》なりし婢《をんな》を呼立てて、速々《そくそく》主《あるじ》の方《かた》へ走らせつ。莨盆《たばこぼん》を出《いだ》し、番茶を出《いだ》せしのみにて、納戸《なんど》に入りける妻は再び出《い》で来《きた》らず。この間は貫一は如何《いか》にこの探偵一件を処置せんかと工夫してゐたり。やや有りて婢の息促《いきせ》き還来《かへりき》にける気勢《けはひ》せしが、やがて妻の出でて例の声を振ひぬ。
「さあ唯今|些《ちよつ》と手が放せませんので、御殿の方に居りますから、どうか彼方《あちら》へお出なすつて。直《ぢき》其処《そこ》ですよ。婢に案内を為せます。あの豊《とよ》や!」
 暇乞《いとまごひ》して戸口を出づれば、勝手元の垣の側《きは》に二十歳《はたち》かと見ゆる物馴顔《ものなれがほ》の婢の待《ま》てりしが、後《うしろ》さまに帯※[#「※」は「(尸+巾)+又」、123−1]《おびかひつくろ》ひつつ道知辺《みちしるべ》す。垣に沿ひて曲れば、玉川|砂礫《ざり》を敷きたる径《こみち》ありて、出外《ではづ》るれば子
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