懽《よろこ》びぬ。
「御遠慮無く有仰《おつしや》つて下さい」
「さう? 本当に可いのですか」
お峯は彼が然諾《ぜんだく》の爽《さはやか》なるに遇《あ》ひて、紅茶と栗とのこれに酬ゆるの薄儀に過ぎたるを、今更に可愧《はづかし》く覚ゆるなり。
「それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若《も》し行つたのなら、何頃《いつごろ》行つて何頃帰つたか、なあに、十《とを》に九《ここのつ》まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから」
「では行つて参りませう」
彼は起ちて寝衣帯《ねまきおび》を解かんとすれば、
「お待ちなさいよ、今|俥《くるま》を呼びに遣《や》るから」
かく言捨ててお峯は忙《せはし》く階子《はしご》を下行《おりゆ》けり。
迹《あと》に貫一は繰返し繰返しこの事の真偽を案じ煩《わづら》ひけるが、服を改めて居間を出でんとしつつ、
「女房に振られて、学士に成損《なりそこな》つて、後が高利貸の手代で、お上さんの秘密探偵か!」
と端無《はしな》く思ひ浮べては漫《そぞろ》に独《ひと》り打笑《うちゑま》れつ。
第 四 章
貫一は直《ただち》に俥《くるま》を飛《とば》して氷川なる畔柳《くろやなぎ》のもとに赴《おもむ》けり。その居宅は田鶴見子爵の邸内に在りて、裏門より出入《しゆつにゆう》すべく、館《やかた》の側面を負ひて、横長に三百坪ばかりを木槿垣《もくげがき》に取廻して、昔形気《むかしかたぎ》の内に幽《ゆか》しげに造成《つくりな》したる二階建なり。構《かまへ》の可慎《つつまし》う目立たぬに引易《ひきか》へて、木口《きぐち》の撰択《せんたく》の至れるは、館の改築ありし折その旧材を拝領して用ゐたるなりとぞ。
貫一も彼の主《あるじ》もこの家に公然の出入《でいり》を憚《はばか》る身なれば、玄関|側《わき》なる格子口《こうしぐち》より訪《おとづ》るるを常とせり。彼は戸口に立寄りけるに、鰐淵の履物《はきもの》は在らず。はや帰りしか、来《こ》ざりしか、或《あるひ》は未《いま》だ見えざるにや、とにもかくにもお峯が言《ことば》にも符号すれども、直《ただち》にこれを以て疑を容《い》るべきにあらずなど思ひつ
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