心配で、心火《ちんちん》なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落《しやれ》た沙汰《さた》ぢやありはしません。あんな者に係合《かかりあ》つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫《ひと》もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異《をかし》いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶《しや》れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下《したておろ》し渾成《づくめ》で、その奇麗事と謂《い》つたら、何《いつ》が日《ひ》にも氷川へ行くのにあんなに※[#「※」は「靜−爭+見」、119−3]《めか》した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの」
「それが事実なら困りましたな」
「あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに」
貫一の気乗せぬをお峯はいと歯痒《はがゆ》くて心|苛《いら》つなるべし。
「はあ、事実とすれば弥《いよい》よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう」
「私は悋気《りんき》で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手《あひて》が悪いからねえ」
思ひ直せども貫一が腑《ふ》には落ちざるなりけり。
「さうして、それは何頃《いつごろ》からの事でございます」
「ついこの頃ですよ、何でも」
「然《しか》し、何《な》にしろ御心配でせう」
「それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤《とつく》り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処《そこ》を突止めたいのだけれど、私の体《からだ》ぢや戸外《おもて》の様子が全然《さつぱり》解らないのですものね」
「御尤《ごもつとも》」
「で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在《いで》でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね」
行けよと命ぜられたるとなんぞ択ばん、これ有る哉《かな》、紅茶と栗と、と貫一はその余《あまり》に安く売られたるが独《ひと》り可笑《をかし》かりき。
「いえ、一向|差支《さしつかへ》ございません。どういふ事ですか」
「さう? 余《あんま》りお気の毒ね」
彼の赤き顔の色は耀《かがや》くばかりに
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