向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません」
「外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内《うち》の人も同《おんな》じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね」
 お峯がナイフを執れる手は漸《やうや》く鈍くなりぬ。
「おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう」
「非常ですな」
「虫が付いちや可けません! 栗には限らず」
「さうです」
 お峯は又一つ取りて剥《む》き始めけるが、心進まざらんやうにナイフの運《はこび》は愈《いよい》よ等閑《なほざり》なりき。
「これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処《ここ》きりの話ですからね」
「承知しました」
 貫一は食はんとせし栗を持ち直して、屹《き》とお峯に打向ひたり。聞く耳もあらずと知れど、秘密を語らんとする彼の声は自《おのづ》から潜《ひそま》りぬ。
「どうも私はこの間から異《をかし》いわいと思つてゐたのですが、どうも様子がね、内の夫《ひと》があの別品さんに係合《かかりあひ》を付けてゐやしないかと思ふの――どうもそれに違無いの!」
 彼ははや栗など剥かずなりぬ。貫一は揺笑《ゆすりわらひ》して、
「そんな馬鹿な事が、貴方《あなた》……」
「外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房《にようぼ》の私が……それはもう間違無しよ!」
 貫一は熟《じつ》と思ひ入りて、
「旦那はお幾歳《いくつ》でしたな」
「五十一、もう爺《ぢぢい》ですわね」
 彼は又思案して、
「何ぞ証拠が有りますか」
「証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの!!」
 息巻くお峯の前に彼は面《おもて》を俯《ふ》して言はず、静に思廻《おもひめぐ》らすなるべし。お峯は心着きて栗を剥き始めつ。その一つを終ふるまで言《ことば》を継がざりしが、さて徐《おもむろ》に、
「それはもう男の働とか云ふのだから、妾《めかけ》も楽《たのしみ》も可うございます。これが芸者だとか、囲者《かこひもの》だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫《あかがし》さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡《ただ》の代物《しろもの》ぢやありはしませんわね。それだから私は実に
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