あり。歯性悪ければとて常に涅《くろ》めたるが、かかるをや烏羽玉《ぬばたま》とも謂《い》ふべく殆《ほとん》ど耀《かがや》くばかりに麗《うるは》し。茶柳条《ちやじま》のフラネルの単衣《ひとへ》に朝寒《あささむ》の羽織着たるが、御召|縮緬《ちりめん》の染直しなるべく見ゆ。貫一はさすがに聞きも流されず、
「何為《なぜ》ですか」
 お峯は羽織の紐《ひも》を解きつ結びつして、言はんか、言はざらんかを遅《ためら》へる風情《ふぜい》なるを、強《し》ひて問はまほしき事にはあらじと思へば、貫一は籃《かご》なる栗を取りて剥《む》きゐたり。彼は姑《しばら》く打案ぜし後、
「あの赤樫《あかがし》の別品《べつぴん》さんね、あの人は悪い噂《うはさ》が有るぢやありませんか、聞きませんか」
「悪い噂とは?」
「男を引掛けては食物《くひもの》に為るとか云ふ……」
 貫一は覚えず首を傾けたり。曩《さき》の夜の事など思合すなるべし。
「さうでせう」
「一向聞きませんな。那奴《あいつ》男を引掛けなくても金銭《かね》には窮《こま》らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……」
「だから可《い》けない。お前さんなんぞもべいろしや[#「べいろしや」に傍点]組の方ですよ。金銭《かね》が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの」
「はて、な」
「あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方《こつち》へお貸しなさい」
「これは憚様《はばかりさま》です」
 お峯はその言はんとするところを言はんとには、墨々《まじまじ》と手を束《つか》ねて在らんより、事に紛らしつつ語るの便《たより》あるを思へるなり。彼は更に栗の大いなるを択《えら》みて、その頂《いただき》よりナイフを加へつ。
「些《ちよい》と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人《かたじん》だから可いけれど、本当にあんな者に係合《かかりあ》ひでもしたら大変ですよ」
「さう云ふ事が有りますかな」
「だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣《や》ると云ふのは評判ですよ。金窪《かなくぼ》さん、鷲爪《わしづめ》さん、それから芥原《あくたはら》さん、皆《みんな》その話をしてゐましたよ」
「或《あるひ》はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一
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