、彼に対しては銕桿《かなてこ》も折れぬべきに持余しつるを、克《かな》はぬまでも棄措《すてお》くは口惜《くちをし》ければ、せめては令見《みせしめ》の為にも折々|釘《くぎ》を刺して、再び那奴《しやつ》の翅《はがい》を展《の》べしめざらんに如《し》かずと、昨日《きのふ》は貫一の曠《ぬか》らず厳談せよと代理を命ぜられてその家に向ひしなり。
彼は散々に飜弄《ほんろう》せられけるを、劣らじと罵《ののし》りて、前後四時間ばかりその座を起ちも遣《や》らで壮《さかん》に言争ひしが、病者に等き青二才と侮《あなど》りし貫一の、陰忍《しんねり》強く立向ひて屈する気色《けしき》あらざるより、有合ふ仕込杖《しこみつゑ》を抜放し、おのれ還《かへ》らずば生けては還さじと、二尺|余《あまり》の白刃を危《あやふ》く突付けて脅《おびやか》せしを、その鼻頭《はなさき》に待《あしら》ひて愈《いよい》よ動かざりける折柄《をりから》、来合せつる壮士三名の乱拳に囲れて門外に突放され、少しは傷など受けて帰来《かへりき》にけるが、これが為に彼の感じ易《やす》き神経は甚《はなはだし》く激動して夜もすがら眠を成さず、今朝は心地の転《うた》た勝《すぐ》れねば、一日の休養を乞ひて、夜具をも収めぬ一間に引籠《ひきこも》れるなりけり。かかることありし翌日は夥《おびただし》く脳の憊《つか》るるとともに、心乱れ動きて、その憤《いか》りし後《のち》を憤り、悲みし後を悲まざれば已《や》まず、為に必ず一日の勤を廃するは彼の病なりき。故《ゆゑ》に彼は折に触れつつその体《たい》の弱く、その情の急なる、到底この業に不適当なるを感ぜざること無し。彼がこの業に入りし最初の一年は働より休の多かりし由を言ひて、今も鰐淵の笑ふことあり。次の年よりは漸《やうや》く慣れてけれど、彼の心は決《け》してこの悪を作《な》すに慣れざりき。唯能《ただよ》く忍得るを学びたるなり。彼の学びてこれを忍得るの故は、爾来《じらい》終天の失望と恨との一日《いちじつ》も忘るる能《あた》はざるが為に、その苦悶《くもん》の余勢を駆りて他の方面に注がしむるに過ぎず。彼はその失望と恨とを忘れんが為には、以外の堪《た》ふまじき苦悶を辞せざるなり。されども彼は今もなほ往々自ら為せる残刻を悔い、或《ある》は人の加ふる侮辱に堪《た》へずして、神経の過度に亢奮《こうふん》せらるる為に、一日の調摂を
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