はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌《きらひ》で、総《すべ》ての人間を好まんのですから」
「それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?」
「勿論! 別して惚《ほ》れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です」
「あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解《わかり》になりましても」
「高利貸の目には涙は無いですよ」
 今は取付く島も無くて、満枝は暫《しば》し惘然《ぼうぜん》としてゐたり。
「どうぞ御飯を頂戴」
 打萎《うちしを》れつつ満枝は飯《めし》を盛りて出《いだ》せり。
「これは恐入ります」
 彼は啖《くら》ふこと傍《かたはら》に人無き若《ごと》し。満枝の面《おもて》は薄紅《うすくれなゐ》になほ酔《ゑひ》は有りながら、酔《よ》へる体《てい》も無くて、唯打案じたり。
「貴方も上りませんか」
 かく会釈して貫一は三盃目《さんばいめ》を易《か》へつ。やや有りて、
「間さん」と、呼れし時、彼は満口に飯を啣《ふく》みて遽《にはか》に応《こた》ふる能《あた》はず、唯目を挙《あ》げて女の顔を見たるのみ。
「私もこんな事を口に出しますまでには、もしや貴方が御承知の無い時には、とそれ等を考へまして、もう多時《しばらく》胸に畳んでをつたのでございます。それまで大事を取つてをりながら、かう一も二も無く奇麗にお謝絶《ことわり》を受けては、私実に面目《めんぼく》無くて……余《あんま》り悔《くやし》うございますわ」
 慌忙《あわただし》くハンカチイフを取りて、片手に恨泣《うらみなき》の目元を掩《おほ》へり。
「面目無くて私、この座が起《たた》れません。間さん、お察し下さいまし」
 貫一は冷々《ひややか》に見返りて、
「貴方一人を嫌つたと云ふ訳なら、さうかも知れませんけれど、私は総《すべ》ての人間が嫌なのですから、どうぞ悪《あし》からず思つて下さい。貴方も御飯をお上んなさいな。おお! さうして小車梅《おぐるめ》の件に就いてのお話は?」
 泣赤《なきあか》めたる目を拭《ぬぐ》ひて満枝は答へず。
「どう云ふお話ですか」
「そんな事はどうでも宜《よろし》うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召《おぼしめ》して下さい。で、お可厭《いや》ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日《いつ》までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやい
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