男子たる者が、金銭《かね》の為に見易《みか》へられたかと思へば、その無念といふものは、私は一《い》……一生忘れられんです。
 軽薄でなければ詐《いつはり》、詐でなければ利慾、愛相《あいそ》の尽きた世の中です。それほど可厭《いや》な世の中なら、何為《なぜ》一思《ひとおもひ》に死んで了はんか、と或は御不審かも知れん。私は死にたいにも、その無念が障《さはり》になつて死切れんのです。売られた人達を苦めるやうなそんな復讐《ふくしゆう》などは為たくはありません、唯自分だけで可いから、一旦受けた恨! それだけは屹《きつ》と霽《はら》さなければ措《お》かん精神。片時でもその恨を忘れることの出来ん胸中といふものは、我ながらさう思ひますが、全《まる》で発狂してゐるやうですな。それで、高利貸のやうな残刻の甚《はなはだし》い、殆《ほとん》ど人を殺す程の度胸を要する事を毎日扱つて、さうして感情を暴《あら》してゐなければとても堪へられんので、発狂者には適当の商売です。そこで、金銭《かね》ゆゑに売られもすれば、辱《はづかし》められもした、金銭の無いのも謂はば無念の一つです。その金銭が有つたら何とでも恨が霽されやうか、とそれを楽《たのしみ》に義理も人情も捨てて掛つて、今では名誉も色恋も無く、金銭より外には何の望《のぞみ》も持たんのです。又考へて見ると、憖《なまじ》ひ人などを信じるよりは金銭を信じた方が間違が無い。人間よりは金銭の方が夐《はる》か頼《たのみ》になりますよ。頼にならんのは人の心です!
 先《まづ》かう云ふ考でこの商売に入つたのでありますから、実を申せば、貴方の貸して遣らうと有仰《おつしや》る資本は欲いが、人間の貴方には用が無いのです」
 彼は仰ぎて高笑《たかわらひ》しつつも、その面《おもて》は痛く激したり。
 満枝は、彼の言《ことば》の決して譌《いつはり》ならざるべきを信じたり。彼の偏屈なる、実《げ》にさるべき所見《かんがへ》を懐けるも怪むには足らずと思へるなり。されども、彼は未だ恋の甘きを知らざるが故《ゆゑ》に、心狭くもこの面白き世に偏屈の扉《とびら》を閉ぢて、詐《いつはり》と軽薄と利欲との外なる楽あるを暁《さと》らざるならん。やがて我そを教へんと、満枝は輙《たやす》く望を失はざるなりき。
「では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか」
「疑ふ、疑
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