「私もこんな可耻《はづかし》い事を、一旦申上げたからには、このままでは済されません」
貫一は緩《ゆるや》かに頷《うなづ》けり。
「女の口からかう云ふ事を言出しますのは能々《よくよく》の事でございますから、それに対するだけの理由を有仰《おつしや》つて、どうぞ十分に私が得心の参るやうにお話し下さいましな、私座興でこんな事を申したのではございませんから」
「御尤《ごもつとも》です。私のやうな者でもそんなに言つて下さると思へば、決して嬉くない事はありません。ですから、その御深切に対して裹《つつ》まず自分の考量《かんがへ》をお話し申します。けれど、私は御承知の偏屈者でありますから、衆《ひと》とは大きに考量が違つてをります。
第一、私は一生|妻《さい》といふ者は決《け》して持たん覚悟なので。御承知か知りませんが、元、私は書生でありました。それが中途から学問を罷《や》めて、この商売を始めたのは、放蕩《ほうとう》で遣損《やりそこな》つたのでもなければ、敢《あへ》て食窮《くひつ》めた訳でも有りませんので。書生が可厭《いや》さに商売を遣らうと云ふのなら、未だ外《ほか》に幾多《いくら》も好い商売は有りますさ、何を苦んでこんな極悪非道な、白日《はくじつ》盗《とう》を為《な》すと謂《い》はうか、病人の喉口《のどくち》を干《ほ》すと謂《い》はうか、命よりは大事な人の名誉を殺して、その金銭を奪取る高利貸などを択《えら》むものですか」
聴居る満枝は益《ますま》す酔《ゑひ》を冷されぬ。
「不正な家業と謂ふよりは、もう悪事ですな。それを私が今日《こんにち》始めて知つたのではない、知つて身を堕《おと》したのは、私は当時|敵手《さき》を殺して自分も死にたかつたくらゐ無念|極《きはま》る失望をした事があつたからです。その失望と云ふのは、私が人を頼《たのみ》にしてをつた事があつて、その人達も頼れなければならん義理合になつてをつたのを、不図した慾に誘れて、約束は違へる、義理は捨てる、さうして私は見事に売られたのです」
火影《ひかげ》を避けんとしたる彼の目の中に遽《にはか》に耀《かがや》けるは、なほ新《あらた》なる痛恨の涙の浮べるなり。
「実に頼少《たのみすくな》い世の中で、その義理も人情も忘れて、罪も無い私の売られたのも、原《もと》はと云へば、金銭《かね》からです。仮初《かりそめ》にも一匹《いつぴき》の
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