のが少しでも出来たらと思つてゐます」
満枝は忽《たちま》ち声を斂《をさ》めて、物思はしげに差俯《さしうつむ》き、莨盆の縁《ふち》をば弄《もてあそ》べるやうに煙管《きせる》もて刻《きざみ》を打ちてゐたり。折しも電燈の光の遽《にはか》に晦《くら》むに驚きて顔を挙《あぐ》れば、又|旧《もと》の如く一間《ひとま》は明《あかる》うなりぬ。彼は煙管を捨てて猶暫《なほしば》し打案じたりしが、
「こんな事を申上げては甚《はなは》だ失礼なのでございますけれど、何時まで彼方《あちら》にゐらつしやるよりは、早く独立あそばした方が宜《よろし》いでは御坐いませんか。もし明日にもさうと云ふ御考でゐらつしやるならば、私……こんな事を申しては……烏滸《をこ》がましいので御坐いますが、大した事は出来ませんけれど、都合の出来るだけは御用達申して上げたいのでございますが、さう遊ばしませんか」
意外に打れたる貫一は箸《はし》を扣《ひか》へて女の顔を屹《き》と視《み》たり。
「さう遊ばせよ」
「それはどう云ふ訳ですか」
実に貫一は答に窮せるなりき。
「訳ですか?」と満枝は口籠《くちごも》りたりしが、
「別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫《あかがし》に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます」
「全然《さつぱり》解らんですな」
「貴方、可うございますよ」
可恨《うらめ》しげに満枝は言《ことば》を絶ちて、横膝《よこひざ》に莨を拈《ひね》りゐたり。
「失礼ですけれど、私はお先へ御飯を戴きます」
貫一が飯桶《めしつぎ》を引寄せんとするを、はたと抑《おさ》へて、
「お給仕なれば私致します」
「それは憚様《はばかりさま》です」
満枝は飯桶を我が側に取寄せしが、茶椀《ちやわん》をそれに伏せて、彼方《あなた》の壁際《かべぎは》に推遣《おしや》りたり。
「未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ」
「もう頭が痛くて克《かな》はんですから赦《ゆる》して下さい。腹が空いてゐるのですから」
「お餒《ひもじ》いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛《つら》うございませう」
「知れた事ですわ」
「さうでございませう。それなら、此方《こちら》で思つてゐることが全《まる》で先方《さき》へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐《はるか》に辛うございますよ。そんなにお餒じけ
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