ばかりさま》ですが、もう一つお酌を」
「酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい」
「今晩は私酔ふ意《つもり》なのでございますもの」
その媚《こび》ある目の辺《ほとり》は漸《やうや》く花桜の色に染みて、心楽しげに稍《やや》身を寛《ゆるやか》に取成したる風情《ふぜい》は、実《げ》に匂《にほひ》など零《こぼ》れぬべく、熱しとて紺の絹精縷《きぬセル》の被風《ひふ》を脱げば、羽織は無くて、粲然《ぱつ》としたる紋御召の袷《あはせ》に黒樗文絹《くろちよろけん》の全帯《まるおび》、華麗《はなやか》に紅《べに》の入りたる友禅の帯揚《おびあげ》して、鬢《びん》の後《おく》れの被《かか》る耳際《みみぎは》を掻上《かきあ》ぐる左の手首には、早蕨《さわらび》を二筋《ふたすぢ》寄せて蝶《ちよう》の宿れる形《かた》したる例の腕環の爽《さはやか》に晃《きらめ》き遍《わた》りぬ。常に可忌《いまは》しと思へる物をかく明々地《あからさま》に見せつけられたる貫一は、得堪《えた》ふまじく苦《にが》りたる眉状《まゆつき》して密《ひそか》に目を※[#「※」は「(睹−目)/(翕−合)」、97−5]《そら》しつ。彼は女の貴族的に装《よそほ》へるに反して、黒紬《くろつむぎ》の紋付の羽織に藍千筋《あゐせんすぢ》の秩父銘撰《ちちぶめいせん》の袷着て、白縮緬《しろちりめん》の兵児帯《へこおび》も新《あたらし》からず。
彼を識《し》れりし者は定めて見咎《みとが》むべし、彼の面影《おもかげ》は尠《すくな》からず変りぬ。愛らしかりしところは皆|失《う》せて、四年《よとせ》に余る悲酸と憂苦と相結びて常に解けざる色は、自《おのづか》ら暗き陰を成してその面《おもて》を蔽《おほ》へり。撓《たゆ》むとも折るべからざる堅忍の気は、沈鬱せる顔色《がんしよく》の表に動けども、嘗《かつ》て宮を見しやうの優き光は再びその眼《まなこ》に輝かずなりぬ。見ることの冷《ひややか》に、言ふことの謹《つつし》めるは、彼が近来の特質にして、人はこれが為に狎《な》るるを憚《はばか》れば、自《みづから》もまた苟《いやしく》も親みを求めざるほどに、同業者は誰《たれ》も誰も偏人として彼を遠《とほざ》けぬ。焉《いづく》んぞ知らん、貫一が心には、さしもの恋を失ひし身のいかで狂人たらざりしかを怪《あやし》むなりけり。
彼は色を正して、満枝が独り興に乗じて盃《さか
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