て、
「決《け》して穢《きたな》いのでは御坐いませんけれど、つい心着《こころつ》きませんでした」
懐紙《ふところがみ》を出《いだ》してわざとらしくその吸口を捩拭《ねぢぬぐ》へば、貫一も少《すこし》く慌《あわ》てて、
「決《け》してさう云ふ訳ぢやありません、私は日本莨は用ゐんのですから」
満枝は再び彼の顔を眺めつ。
「貴方、嘘をお吐《つ》きなさるなら、もう少し物覚《ものおぼえ》を善く遊ばせよ」
「はあ?」
「先日|鰐淵《わにぶち》さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか」
「はあ?」
「瓢箪《ひようたん》のやうな恰好《かつこう》のお煙管で、さうして羅宇《らう》の本《もと》に些《ちよつ》と紙の巻いてございました」
「あ!」と叫びし口は頓《とみ》に塞《ふさ》がざりき。満枝は仇無《あどな》げに口を掩《おほ》ひて笑へり。この罰として貫一は直《ただち》に三服の吸付莨を強《し》ひられぬ。
とかくする間《ま》に盃盤《はいばん》は陳《つら》ねられたれど、満枝も貫一も三|盃《ばい》を過し得ぬ下戸《げこ》なり。女は清めし猪口《ちよく》を出《いだ》して、
「貴方、お一盞《ひとつ》」
「可かんのです」
「又そんな事を」
「今度は実際」
「それでは麦酒《ビール》に致しませうか」
「いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に」
酒には礼ありて、おのれ辞せんとならば、必ず他に侑《すす》めて酌せんとこそあるべきに、甚《はなはだし》い哉、彼の手を束《つか》ねて、御随意にと会釈せるや、満枝は心憎しとよりはなかなかに可笑しと思へり。
「私も一向不調法なのでございますよ。折角差上げたものですからお一盞《ひとつ》お受け下さいましな」
貫一は止む無くその一盞《ひとつ》を受けたり。はやかく酒になりけれども、満枝が至急と言ひし用談に及ばざれば、
「時に小車梅《おぐるめ》の件と云ふのはどんな事が起りましたな」
「もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞」
彼は忽《たちま》ち眉《まゆ》を攅《あつ》めて、
「いやそんなに」
「それでは私が戴《いただ》きませう、恐入りますがお酌を」
「で、小車梅の件は?」
「その件の外《ほか》に未だお話があるのでございます」
「大相有りますな」
「酔はないと申上げ難《にく》い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様《は
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