》打ちたる手鞄《てかばん》を取直して、婦人はやをら起上《たちあが》りつ。迷惑は貫一が面《おもて》に顕《あらは》れたり。
「何方《どちら》へ?」
「何方《どちら》でも、私には解りませんですから貴方《あなた》のお宜《よろし》い所へ」
「私にも解りませんな」
「あら、そんな事を仰有《おつしや》らずに、私は何方でも宜《よろし》いのでございます」
荒布革《あらめがは》の横長なる手鞄《てかばん》を膝の上に掻抱《かきいだ》きつつ貫一の思案せるは、その宜き方《かた》を択ぶにあらで、倶《とも》に行くをば躊躇《ちゆうちよ》せるなり。
「まあ、何にしても出ませう」
「さやう」
貫一も今は是非無く婦人に従ひて待合所の出会頭《であひがしら》に、入来《いりく》る者ありて、その足尖《つまさき》を挫《ひし》げよと踏付けられぬ。驚き見れば長高《たけたか》き老紳士の目尻も異《あやし》く、満枝の色香《いろか》に惑ひて、これは失敬、意外の麁相《そそう》をせるなりけり。彼は猶懲《なほこ》りずまにこの目覚《めざまし》き美形《びけい》の同伴をさへ暫《しばら》く目送《もくそう》せり。
二人は停車場《ステエション》を出でて、指す方《かた》も無く新橋に向へり。
「本当に、貴方、何方へ参りませう」
「私は、何方でも」
「貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極《き》めやうでは御坐いませんか」
「さやう」
満枝は彼の心進まざるを暁《さと》れども、勉《つと》めて吾意《わがい》に従はしめんと念《おも》へば、さばかりの無遇《ぶあしらひ》をも甘んじて、
「それでは、貴方、鰻※[#「※」は「魚+麗」、93−2]《うなぎ》は上《あが》りますか」
「鰻※[#「※」は「魚+麗」、93−3]? 遣りますよ」
「鶏肉《とり》と何方が宜《よろし》うございます」
「何方でも」
「余り御挨拶《ごあいさつ》ですね」
「何為《なぜ》ですか」
この時貫一は始めて満枝の面《おもて》に眼《まなこ》を移せり。百《もも》の媚《こび》を含みて※[#「※」は「目+是」、93−8]《みむか》へし彼の眸《まなじり》は、未《いま》だ言はずして既にその言はんとせる半《なかば》をば語尽《かたりつく》したるべし。彼の為人《ひととなり》を知りて畜生と疎《うと》める貫一も、さすがに艶なりと思ふ心を制し得ざりき。満枝は貝の如き前歯と
前へ
次へ
全354ページ中65ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
尾崎 紅葉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング