何の故にさしも懐《おもひ》に忘れざる旧友と相見て別《べつ》を為さざりしか。彼が今の身の上を知らば、この疑問は自《おのづか》ら解釈せらるべし。
 柵の外に立ちて列車の行くを送りしは独《ひと》り間貫一のみにあらず、そこもとに聚《つど》ひし老若貴賤《ろうにやくきせん》の男女《なんによ》は皆個々の心をもて、愁ふるもの、楽むもの、虞《きづか》ふもの、或は何とも感ぜぬものなど、品変れども目的は一《いつ》なり。数分時の混雑の後車の出《い》づるとともに、一人散り、二人散りて、彼の如く久《ひさし》う立尽せるはあらざりき。やがて重き物など引くらんやうに彼の漸《やうや》く踵《きびす》を旋《めぐら》せし時には、推重《おしかさな》るまでに柵際《さくぎは》に聚《つど》ひし衆《ひと》は殆《ほとん》ど散果てて、駅夫の三四人が箒《はうき》を執りて場内を掃除せるのみ。
 貫一は差含《さしぐま》るる涙を払ひて、独り後《おく》れたるを驚きけん、遽《にはか》に急ぎて、蓬莱橋口《ほうらいばしぐち》より出《い》でんと、あだかも石段際に寄るところを、誰《たれ》とも知らで中等待合の内より声を懸けぬ。
「間さん!」
 慌《あわ》てて彼の見向く途端に、
「些《ちよつ》と」と戸口より半身を示して、黄金《きん》の腕環の気爽《けざやか》に耀《かがや》ける手なる絹ハンカチイフに唇辺《くちもと》を掩《おほ》いて束髪の婦人の小腰を屈《かが》むるに会へり。艶《えん》なる面《おもて》に得も謂《い》はれず愛らしき笑《ゑみ》をさへ浮べたり。
「や、赤樫《あかがし》さん!」
 婦人の笑《ゑみ》もて迎ふるには似ず、貫一は冷然として眉《まゆ》だに動かさず。
「好《よ》い所でお目に懸りましたこと。急にお話を致したい事が出来ましたので、まあ、些《ちよつ》と此方《こち》へ」
 婦人は内に入れば、貫一も渋々|跟《つ》いて入るに、長椅子《ソオフワア》に掛《かく》れば、止む無くその側《そば》に座を占めたり。
「実はあの保険建築会社の小車梅《おぐるめ》の件なのでございますがね」
 彼は黒樗文絹《くろちよろけん》の帯の間を捜《さぐ》りて金側時計を取出《とりいだ》し、手早く収めつつ、
「貴方《あなた》どうせ御飯前でゐらつしやいませう。ここでは、御話も出来ませんですから、何方《どちら》へかお供を致しませう」
 紫紺|塩瀬《しほぜ》に消金《けしきん》の口金《くちがね
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