強曳《しよぴか》れて漸《やうや》く安堵《あんど》せる間《ま》も無く、青洟垂《あをばなたら》せる女の子を率ゐて、五十|余《あまり》の老夫《おやぢ》のこれも戸惑《とまどひ》して往《ゆ》きつ復《もど》りつせし揚句《あげく》、駅夫に曳《ひか》れて室内に押入れられ、如何《いか》なる罪やあらげなく閉《た》てらるる扉に袂《たもと》を介《はさ》まれて、もしもしと救《すくひ》を呼ぶなど、未《いま》だ都を離れざるにはや旅の哀《あはれ》を見るべし。
 五人一隊の若き紳士等は中等室の片隅《かたすみ》に円居《まどゐ》して、その中に旅行らしき手荷物を控へたるは一人よりあらず、他は皆横浜までとも見ゆる扮装《いでたち》にて、紋付の袷羽織《あはせはおり》を着たるもあれば、精縷《セル》の背広なるもあり、袴《はかま》着けたるが一人、大島紬《おほしまつむぎ》の長羽織と差向へる人のみぞフロックコオトを着て、待合所にて受けし餞別《せんべつ》の瓶《びん》、凾《はこ》などを網棚《あみだな》の上に片附けて、その手を摩払《すりはら》ひつつ窓より首を出《いだ》して、停車場《ステエション》の方《かた》をば、求むるものありげに望見《のぞみみ》たりしが、やがて藍《あゐ》の如き晩霽《ばんせい》の空を仰ぎて、
「不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや」
「今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟《あまかす》」
 黒餅《こくもち》に立沢瀉《たちおもだか》の黒紬《くろつむぎ》の羽織着たるがかく言ひて示すところあるが如き微笑を洩《もら》せり。甘糟と呼れたるは、茶柳条《ちやじま》の仙台平《せんだいひら》の袴を着けたる、この中にて独《ひと》り頬鬚《ほほひげ》の厳《いかめし》きを蓄《たくは》ふる紳士なり。
 甘糟の答ふるに先《さきだ》ちて、背広の風早《かざはや》は若きに似合はぬ皺嗄声《しわがれごゑ》を振搾《ふりしぼ》りて、
「甘糟は一興で、君は望むところなのだらう」
「馬鹿言へ。甘糟の痒《かゆ》きに堪《た》へんことを僕は丁《ちやん》と洞察《どうさつ》してをるのだ」
「これは憚様《はばかりさま》です」
 大島紬の紳士は黏着《へばりつ》いたるやうに靠《もた》れたりし身を遽《にはか》に起して、
「風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利《さぶり》と甘糟は夙《かね》て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間|遊仙窟《ゆう
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