たり。宮は見るより必死と起上りて、脚の傷《いたみ》に幾度《いくたび》か仆《たふ》れんとしつつも後を慕ひて、
「貫一さん、それぢやもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言遺《いひのこ》した事がある」
遂《つひ》に倒れし宮は再び起《た》つべき力も失せて、唯声を頼《たのみ》に彼の名を呼ぶのみ。漸《やうや》く朧《おぼろ》になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶《みもだえ》して猶《なほ》呼続けつ。やがてその黒き影の岡の頂《いただき》に立てるは、此方《こなた》を目戍《まも》れるならんと、宮は声の限に呼べば、男の声も遙《はるか》に来りぬ。
「宮《みい》さん!」
「あ、あ、あ、貫一《かんいつ》さん!」
首を延べて※[#「※」は「目+旬」、78−14]《みまは》せども、目を※[#「※」は「目+登」]《みは》りて眺むれども、声せし後《のち》は黒き影の掻消《かきけ》す如く失《う》せて、それかと思ひし木立の寂しげに動かず、波は悲き音を寄せて、一月十七日の月は白く愁ひぬ。
宮は再び恋《こひし》き貫一の名を呼びたりき。
[#改頁]
中 編
第 一 章
新橋停車場《しんばしステエション》の大時計は四時を過《すぐ》ること二分|余《よ》、東海道行の列車は既に客車の扉《とびら》を鎖《さ》して、機関車に烟《けふり》を噴《ふか》せつつ、三十|余輛《よりよう》を聯《つら》ねて蜿蜒《えんえん》として横《よこた》はりたるが、真承《まうけ》の秋の日影に夕栄《ゆふばえ》して、窓々の硝子《ガラス》は燃えんとすばかりに耀《かがや》けり。駅夫は右往左往に奔走して、早く早くと喚《わめ》くを余所《よそ》に、大蹈歩《だいとうほ》の寛々《かんかん》たる老|欧羅巴《エウロッパ》人は麦酒樽《ビイルだる》を窃《ぬす》みたるやうに腹|突出《つきいだ》して、桃色の服着たる十七八の娘の日本の絵日傘《ゑひがさ》の柄《え》に橙《オレンジ》色のリボンを飾りたるを小脇《こわき》にせると推並《おしなら》び、おのれが乗物の顔して急ぐ気色《けしき》も無く過《すぐ》る後より、蚤取眼《のみとりまなこ》になりて遅れじと所体頽《しよたいくづ》して駈来《かけく》る女房の、嵩高《かさだか》なる風呂敷包を抱《いだ》くが上に、四歳《よつ》ほどの子を背負ひたるが、何処《どこ》の扉も鎖したるに狼狽《うろた》ふるを、車掌に
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