さま》に転《まろ》びしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるやうに、彼の身動も得為《えせ》ず弱々《よわよわ》と僵《たふ》れたるを、なほ憎さげに見遣《みや》りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男|一匹《いつぴき》はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤つて了《しま》ふのだ。学問も何ももう廃《やめ》だ。この恨の為に貫一は生きながら悪魔になつて、貴様のやうな畜生の肉を啖《くら》つて遣る覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目には掛らんから、その顔を挙げて、真人間で居る内の貫一の面《つら》を好く見て置かないかい。長々の御恩に預つた翁《をぢ》さん姨《をば》さんには一目会つて段々の御礼を申上げなければ済まんのでありますけれど、仔細《しさい》あつて貫一はこのまま長の御暇《おいとま》を致しますから、随分お達者で御機嫌《ごきげん》よろしう……宮《みい》さん、お前から好くさう言つておくれ、よ、若《も》し貫一はどうしたとお訊《たづ》ねなすつたら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違つて、熱海の浜辺から行方《ゆくへ》知れずになつて了つたと……」
宮はやにはに蹶起《はねお》きて、立たんと為れば脚の痛《いたみ》に脆《もろ》くも倒れて効無《かひな》きを、漸《やうや》く這寄《はひよ》りて貫一の脚に縋付《すがりつ》き、声と涙とを争ひて、
「貫一さん、ま……ま……待つて下さい。貴方《あなた》これから何《ど》……何処《どこ》へ行くのよ」
貫一はさすがに驚けり、宮が衣《きぬ》の披《はだ》けて雪《ゆき》可羞《はづかし》く露《あらは》せる膝頭《ひざがしら》は、夥《おびただし》く血に染みて顫ふなりき。
「や、怪我《けが》をしたか」
寄らんとするを宮は支へて、
「ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから」
「話が有《あ》ればここで聞かう」
「ここぢや私は可厭《いや》よ」
「ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか」
「私は放さない」
「剛情張ると蹴飛《けとば》すぞ」
「蹴られても可いわ」
貫一は力を極《きは》めて振断《ふりちぎ》れば、宮は無残に伏転《ふしまろ》びぬ。
「貫一さん」
「貫一ははや幾間を急行《いそぎゆ》き
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