》に気が移つて、直《ぢき》にお前の恋は冷《さま》されて了ふのは判つてゐる。その時になつて、お前の心地《こころもち》を考へて御覧、あの富山の財産がその苦《くるしみ》を拯《すく》ふかい。家に沢山の財が在れば、夫に棄てられて床の置物になつてゐても、お前はそれで楽《たのしみ》かい、満足かい。
 僕が人にお前を奪《と》られる無念は謂《い》ふまでも無いけれど、三年の後のお前の後悔が目に見えて、心変《こころがはり》をした憎いお前ぢやあるけれど、やつぱり可哀《かあい》さうでならんから、僕は真実で言ふのだ。
 僕に飽きて富山に惚《ほ》れてお前が嫁くのなら、僕は未練らしく何も言はんけれど、宮さん、お前は唯立派なところへ嫁くといふそればかりに迷はされてゐるのだから、それは過《あやま》つてゐる、それは実に過《あやま》つてゐる、愛情の無い結婚は究竟《つまり》自他の後悔だよ。今夜この場のお前の分別《ふんべつ》一つで、お前の一生の苦楽は定るのだから、宮さん、お前も自分の身が大事と思ふなら、又貫一が不便《ふびん》だと思つて、頼む! 頼むから、もう一度分別を為直《しなお》してくれないか。
 七千円の財産と貫一が学士とは、二人の幸福を保つには十分だよ。今でさへも随分二人は幸福ではないか。男の僕でさへ、お前が在れば富山の財産などを可羨《うらやまし》いとは更に思はんのに、宮さん、お前はどうしたのだ! 僕を忘れたのかい、僕を可愛《かはゆ》くは思はんのかい」
 彼は危《あやふ》きを拯《すく》はんとする如く犇《ひし》と宮に取着きて匂滴《にほひこぼ》るる頸元《えりもと》に沸《に》ゆる涙を濺《そそ》ぎつつ、蘆《あし》の枯葉の風に揉《もま》るるやうに身を顫《ふるは》せり。宮も離れじと抱緊《いだきし》めて諸共《もろとも》に顫ひつつ、貫一が臂《ひぢ》を咬《か》みて咽泣《むせびなき》に泣けり。
「嗚呼《ああ》、私はどうしたら可からう! 若し私が彼方《あつち》へ嫁《い》つたら、貫一さんはどうするの、それを聞かして下さいな」
 木を裂く如く貫一は宮を突放して、
「それぢや断然《いよいよ》お前は嫁く気だね! これまでに僕が言つても聴いてくれんのだね。ちええ、膓《はらわた》の腐つた女! 姦婦《かんぷ》!!」
 その声とともに貫一は脚《あし》を挙げて宮の弱腰をはたと※[#「※」は「足+易」、76−13]《け》たり。地響して横様《よこ
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