いくぢ》の無い男でもない。若し間違つて、その十粒か二十粒の工面が出来なかつたら、僕は自分は食はんでも、決してお前に不自由は為せん。宮さん、僕はこれ……これ程までにお前の事を思つてゐる!」
 貫一は雫《しづく》する涙を払ひて、
「お前が富山へ嫁《ゆ》く、それは立派な生活をして、栄耀《えよう》も出来やうし、楽も出来やう、けれどもあれだけの財産は決して息子の嫁の為に費さうとて作られた財産ではない、と云ふ事をお前考へなければならんよ。愛情の無い夫婦の間に、立派な生活が何だ! 栄耀が何だ! 世間には、馬車に乗つて心配さうな青い顔をして、夜会へ招《よば》れて行く人もあれば、自分の妻子《つまこ》を車に載せて、それを自分が挽《ひ》いて花見に出掛ける車夫もある。富山へ嫁《ゆ》けば、家内も多ければ人出入《ひとでいり》も、劇《はげ》しし、従つて気兼も苦労も一通の事ぢやなからう。その中へ入つて、気を傷《いた》めながら愛してもをらん夫を持つて、それでお前は何を楽《たのしみ》に生きてゐるのだ。さうして勤めてゐれば、末にはあの財産がお前の物になるのかい、富山の奥様と云へば立派かも知れんけれど、食ふところは今の雀の十粒か二十粒に過ぎんのぢやないか。よしんばあの財産がお前の自由になるとしたところで、女の身に何十万と云ふ金がどうなる、何十万の金を女の身で面白く費《つか》へるかい。雀に一俵の米を一度に食へと云ふやうなものぢやないか。男を持たなければ女の身は立てないものなら、一生の苦楽他人に頼《よ》るで、女の宝とするのはその夫ではないか。何百万の財《かね》が有らうと、その夫が宝と為るに足らんものであつたら、女の心細さは、なかなか車に載せて花見に連れられる車夫の女房には及ばんぢやあるまいか。
 聞けばあの富山の父と云ふものは、内に二人|外《おもて》に三人も妾を置いてゐると云ふ話だ。財の有る者は大方そんな真似《まね》をして、妻は些《ほん》の床の置物にされて、謂《い》はば棄てられてゐるのだ。棄てられてゐながらその愛されてゐる妾よりは、責任も重く、苦労も多く、苦《くるしみ》ばかりで楽《たのしみ》は無いと謂つて可い。お前の嫁《ゆ》く唯継だつて、固《もと》より所望《のぞみ》でお前を迎《もら》ふのだから、当座は随分愛しも為るだらうが、それが長く続くものか、財《かね》が有るから好きな真似も出来る、他《ほか》の楽《たのしみ
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