でしまう。路傍の花を摘もうとすると、其奴がその花を摘んでしまう。一瞬の幻影で、其奴の姿はすぐに消えるが、行為は確かに果されているのだ。そういう幻覚に、モーパッサン自身悩まされたことを、ロンブローゾは証明している。固より病気のせいだ。私の知ってる医者も、その種の幻覚はあり得ることだと言った。私はその医者に健康診断をして貰ったが、私には病気はなかった。
自分の姿が遊離して行動する。そのようなばかげた幻覚は私にはない。だが往々にして、第三者の眼がありありと見えるのだ。
焼け跡の道を歩いていて、ふと足を止め、若葉を出してる草むらを眺めていると、その草むらの中に、一つの眼が現われて、私の方をじっと眺めている。
キャバレーの円柱のかげで、ウイスキーのグラスをなめていると、音楽が途絶えてひっそりした瞬間、一つの眼が宙に現われて私の方をじっと眺めている。
河岸ぷちの柳の小枝が垂れ下ってるのを見て、夕方、枝が重いか青葉が重いかと、ばかなことを考えているとたんに、一つの眼が柳の中から浮き出してきて、私の方をじっと眺めている。
酒にもくたびれ、自分の室にはいるなり、仰向けにひっくり返って眼を閉じ、
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