い。禁酒は男の恥だ。恥をかくこたあない。ただ別居、別居、別居……。」
三本の銚子から一杯ずつ飲んでいった。
「これは君には一杯もあげないよ。みんな僕一人で飲んでしまうんだ。木下良三、まず一杯、特級酒、次に一杯、杉幸、次に一杯。明日から仲よく別居といこう。喧嘩別れじゃないんだぜ。別居、別居……。」
悲壮な気持ちになって、私は涙を流していた。酒の酔い方にもいろいろあるが、私としては、酔って泣くことなんか初めてだ。顔を伏せ、口の中でぶつぶつ呟き、三本とも飲んでしまった。
顔を挙げると、秋子がまだそこにいた。私の方にじっと眼を向けていた。その眼眸は、私が見返してもたじろぎもせず、何の表情も浮べず、ひたと私の肌に吸いついてくる。蛸の吸盤、蛭の口の吸盤、そんな感じだ。私は身内がぞっと冷たくなった。
――あの時と同じ眼眸を、今、この山の湯でも、秋子は私の上に据えている。酒と別居などという私の決意を、彼女は一顧だにしない。あの時私が泣いて言ったことなど、けろりと忘れてしまっている。この温泉宿に来るとすぐ、私のために、酒を特別に調達してくれているのだ。それでも私は、酒を飲みながら、別居、別居、と
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