悪文を綴ることだ。すべて名文というものは、なだらかで滑っこく、手の捉まりどころもなく、足の踏みしめどころもないが、悪文となれば、至る所に瓦礫があり刺があり凸凹があり、ひっかかるとこばかりで、読書慾を充分に満足させるのである。第二には、物の道理を踏みにじることだ。筋途立ったことはすべて陳腐であって、道理に随わず、論理を無視し、不条理な飛躍を重ねることが、現代の半ば麻痺した精神の嗜好に適するのである。第三には、アブノルマルな人物や事件を設定することだ。これこそ、好奇心を満足させると共に、知識の新領域を開拓するもので、最も肝要だが、実は、多少の観察と多少の想像とで容易く成し得るのである。それらの方面の才能が私にはあった。そして私は、編輯者としての本名の外に、執筆者としてのペン・ネームを幾つか持ち、その幾人分かのカストリを飲むようになった。
 然し、過度の労作は長続きするものではない。私の書くものは次第にマンネリズムに陥って、精彩を欠くようになった。一方、雑誌そのものの売れ行きも思わしくなくなり、私は二重に努力しなければならなかった。随って、ますますカストリに頼った。ところが、カストリというも
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