愛情がなかったわけではないが、結婚のことなど問題ではなかった。
 私は彼女の眼眸に、全く憑かれたようになった。初め私を飛びつかせたその魅力は、今では私を呪縛してるらしいのだ。幻覚までがそれに加わってくる。その眼眸にしめつけられるのは、喜びであるどころか、今では息苦しくさえもある。
 酒も私には憑きものだ。秋子の眼眸も私には憑きものだ。世の中には憑くものはなく、憑かれる人間があるばかりだというのは、嘘である。狐狸妖怪のたぐいはいざ知らず、現に私に憑いてるものがある。私の意識してる限りでは、私の方から進んで憑かれたのではなく、先方から憑いてきたのだ。そして私は心身ともに憔悴してゆくばかりで、何の得るところも無い。
 憑きものの正体を見届けるために、私は秋子を浅間山麓の温泉に誘い出した。気晴しに浅間の煙でも眺めたいと、甚だけちな量見もあった。そして来てみれば、相変らずの酒だ、相変らずの彼女の眼眸だ。

 環境が変ったせいか、私の地位は頗る微妙なものとなった。
 秋子はこまごまと私の面倒をみてくれた。洋服を丁寧にたたんでくれる。私の靴下が少し汚れてるからと、宿の女中に洗濯を頼む。靴下の汚れを気
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