みても、それは明日にしか通用しない。
 明日のことを夢みながら、今日という一日一日を私は過した。身体は変調だった。時あって、胃が痛む、横腹が痛む、腰がふらふらする、膝ががくがくする、頸筋がひきつる。頭の中にはいつもぼーと霧がかかっている。物忘れすること甚しい。寝床の中で眼を覚して、手や足がしびれてることはしばしばだ。
 夜遅く、杉幸で飲んでいる時、突然、私は顔一面に汗をかき、頭からぽっと湯気を立てた。ハンケチでやけに顔を拭き、それから、銚子を三本、一度に持って来てくれと秋子に頼んだ。もう他に客もなく、火も落ちてるらしかったが、秋子はいつも従順だ。
 私は一本の銚子から一杯飲んだ。
「これは僕自身。」
 次の銚子から一杯飲んだ。
「これは酒。」
 その次の銚子から一杯飲んだ。
「これは杉幸。」
 眼に涙がにじんできた。
「三人とも、明日から別居だ。」
「何かのおまじないですか。」と秋子は言った。
「真面目な話だ。夫婦の仲にも別居ということがある。僕と酒と杉幸、こりゃあ夫婦の間よりもっと仲がよかった。然し僕は決心をしたんだ。明日から別居だ。」
「いっそ、離縁をなさらないの。」
「離縁はしない。禁酒は男の恥だ。恥をかくこたあない。ただ別居、別居、別居……。」
 三本の銚子から一杯ずつ飲んでいった。
「これは君には一杯もあげないよ。みんな僕一人で飲んでしまうんだ。木下良三、まず一杯、特級酒、次に一杯、杉幸、次に一杯。明日から仲よく別居といこう。喧嘩別れじゃないんだぜ。別居、別居……。」
 悲壮な気持ちになって、私は涙を流していた。酒の酔い方にもいろいろあるが、私としては、酔って泣くことなんか初めてだ。顔を伏せ、口の中でぶつぶつ呟き、三本とも飲んでしまった。
 顔を挙げると、秋子がまだそこにいた。私の方にじっと眼を向けていた。その眼眸は、私が見返してもたじろぎもせず、何の表情も浮べず、ひたと私の肌に吸いついてくる。蛸の吸盤、蛭の口の吸盤、そんな感じだ。私は身内がぞっと冷たくなった。
 ――あの時と同じ眼眸を、今、この山の湯でも、秋子は私の上に据えている。酒と別居などという私の決意を、彼女は一顧だにしない。あの時私が泣いて言ったことなど、けろりと忘れてしまっている。この温泉宿に来るとすぐ、私のために、酒を特別に調達してくれているのだ。それでも私は、酒を飲みながら、別居、別居、と
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