憑きもの
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
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(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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山の湯に来て、見当が狂った。どこかに違算があったのだ。
僅か二三泊の旅の小物類にしては、少し大きすぎる鞄を、秋子はさげて来たが、その中に、和服の袷や長襦袢がはいっていた。だが帯はない。湯からあがってくると、浴衣と丹前をぬぎすて、臙脂と青とのはでな縞お召の着物に、博多織の赤い伊達巻をきゅっと巻き緊めた姿で食卓について、真正面から私の顔にじっと眼を据えた。黒目が上ずって瞳孔が拡大してるような感じの眼で、その視線は、物を視るというよりも寧ろ、物の表面にぴたりとくっつく。それが、私の顔に、皮膚に、ぴたぴたくっついてくる。
負けた、と認めざるを得ない。
「お酒、召しあがるでしょう。」
いつもの癖で、丁寧な親しみの言葉遣いだ。夫婦気取りというのではなく、自然にすらすらと出てくるのである。
「うん、飲むよ。」
たくさん飲んでやれ、という気になる。
彼女も酒は好きな方である。美しい二重瞼のふちがほんのりと赤らみ、次に頬や耳まで赤くなると、私の方に向けられるその眼眸は、私の肌に一層ぴたぴたとくっついてくる。
いきおい、酒の飲み方が速くなる。
だが、ふと杯を置いて、私は考えこんだ。
別居、離別とまではゆかなくとも、せめて別居。――その決心が蘇ってきた。もとより、秋子に対してのことではない。酒に対してのことだ。平たく言えば、酒と同居するほど常住には飲まず、さりとて離別するほど禁酒はせず、別居という程度に節酒するという、甚だ頼りない次第であり、実はまた最も困難な次第でもあった。
考えてみれば、もともと酒好きではあったが、斯くも酒飲みになったのは、どうやら、自分の才能を発見してからのことらしい。カストリ雑誌とか何とか言われて、世間にもてはやされる有力誌の、いやしくも編輯者たるものは、須らくカストリぐらいは飲まざる可らず、などと言っているうちはさほどでもなかった。ところが、その編輯者たる自分のうちに、優秀な執筆者の才能を発見するに及んで、事態は進展してきた。この優秀な執筆者の才能なるものが、頗る妙なもので、第一には、
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