悪文を綴ることだ。すべて名文というものは、なだらかで滑っこく、手の捉まりどころもなく、足の踏みしめどころもないが、悪文となれば、至る所に瓦礫があり刺があり凸凹があり、ひっかかるとこばかりで、読書慾を充分に満足させるのである。第二には、物の道理を踏みにじることだ。筋途立ったことはすべて陳腐であって、道理に随わず、論理を無視し、不条理な飛躍を重ねることが、現代の半ば麻痺した精神の嗜好に適するのである。第三には、アブノルマルな人物や事件を設定することだ。これこそ、好奇心を満足させると共に、知識の新領域を開拓するもので、最も肝要だが、実は、多少の観察と多少の想像とで容易く成し得るのである。それらの方面の才能が私にはあった。そして私は、編輯者としての本名の外に、執筆者としてのペン・ネームを幾つか持ち、その幾人分かのカストリを飲むようになった。
然し、過度の労作は長続きするものではない。私の書くものは次第にマンネリズムに陥って、精彩を欠くようになった。一方、雑誌そのものの売れ行きも思わしくなくなり、私は二重に努力しなければならなかった。随って、ますますカストリに頼った。ところが、カストリというものは、体力をも脳力をも消耗するだけで、何等の栄養にもならない。そのことに気付いた時は既に遅く、飲酒は単なる習癖を越えて中毒に移行しかかっているように自分にも感ぜられた。それでも、自分の才能に対する自信は失わなかった。なるべくカストリをやめて、清酒や洋酒を飲むことにした。つまり、或る種のアルコールを他の種のアルコールに変えたのである。それから、夜更しの場合にはヒロポンを用い、早寝の場合にはアドルムを用いて、頭脳の調節をはかろうとした。
それにしても、私の創造力の涸渇は蔽うべくもなかった。危機を脱するために、幾度か、遂には毎日のように、節酒の決心をした。その決心がまた逆に、毎日酒を飲むという結果になった。もう今日限り、ということはつまり、今日だけは無条件に許されることに外ならない。そして今日という日は、いつもいつも常に存在する。雑誌の給料や原稿料や編輯費が或る程度自由になったこともいけないが、そうでなくても、酒代なんていうものは、他の費用とちがって、少しく無理をすればどうにでも捻出できる。要するに、今日という日のあることがいけないのだ。汝の享楽の如何に卑賤なることよ、とニーチェ流に叫んで
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