、「宝塔偈」と「発願」とを誦し終りました。
A女は江口さんの方へ向き直り、見据えるようにしていました。
「ミロクというかた、御存じですか。」
江口さんはふしぎそうにA女の顔を見上げました。
「身禄さんなら、知っています。」
「どういうかたですか。」
そこで江口さんは、身禄さんのことを話し、通りがかりにただなんとなくお時儀をしていることを打ち明けました。
「それで分りました。そのミロクさんは、御近所の土地の火伏せの神です。近々のうちに火事が起るかも知れませんから、大事にならないよう、お詣りをなさいませ。お塩とお米をお供えなさるだけで、結構です。なるべく皆さん大勢で、お詣りなさったが宜しいでしょう。うち捨てておかれては、災難が起ります。わたくしも、近日、お詣りしてあげましょう。」
それでほっと息をついた様子で、A女は頬笑み、姿勢をくずして、ふだんの親しい調子に戻りました。
江口さんはなお、いろいろ相談しました。A女は助言してやりました。それから他愛ない世間話となりました。
ところで、江口さんが住んでいる家というのが、戦争前は下宿屋でもしていたらしい大きな家で、室がたくさんあって、十近くもの家族が住み、それぞれ自炊しているのです。
身禄さんのことを江口さんは気にかけて、吹聴して廻りました。A女のことは堅く口止めされていました故、ただ漠然とどこからともなく聞いてきたことにして話しました。すると、だいたい三つの説にわかれました。そういうことならまあお詣りをしておこう、という当り障りのないのが一つ。そのようなことはどうでも宜しい、という無関心なのが一つ。この科学の世の中にばかなことを言うものではない、という反対なのが一つ。一向まとまりはつきませんでした。
ただ、江口さんとほかに二家族だけが、身禄さんに時々お詣りをしました。碑のまわりを掃除したり、草をむしったりしました。A女もまた、江口さんに案内されて、お詣りをし、読経を捧げました。
そして、二ヶ月ばかりたったある夜、不思議なことが起りました。
深夜、A女はふと眼を覚しました。へんに息苦しく、異様な気持ちでした。瞳を宙に凝らしていますと、音なき声が聞えました。
――水行。
しかし、その声を聞いたあとで、A女は我に返って、これは厄介なことになったな、と思いました。夏のことではありましたが、夜中に起き上って水
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