、江口さんは、日頃懇意にしているA女を訪れた際、世間話のついでに、訴えてみました。
A女はいわゆる戦争未亡人で、普通のひとですが、実は、彼女自身では誰にも口外しませんでしたけれど、神仏二道の行を深く積んでいて、特殊な能力を会得していました。それを、江口さんは知っていました。二人とも四十五歳ばかりの年配で、未亡人同士なものですから、普通の主婦たちよりは、立ち入った交際が出来たのでしょう。
江口さんはA女の顔色を窺いながら、言いました。
「なんだか気になるから、ちょっと、みて下さいませんか。」
「みるって、なにをですの。」
「まあ、とぼけなくっても、いいじゃありませんか。」
「べつに、とぼけるわけではありませんけれど……。でも、たいへんなことになると、わたくしが困りますからねえ。」
「大丈夫、御迷惑はおかけしませんから……。」
A女はじっと宙に眼を据えました。もともと痩せてる頬ですが、その蒼白い皮膚が引き緊りました。
「だいたい分りますが……。とにかく、助経して下さい。」
江口さんも一通りは読経が出来るのでした。
A女は数珠を手にして、祭壇の前にぴたりと端坐しました。地袋の上の棚に、壁の丸窓を背にして、一方に仏壇があり、一方には白木の小さな廚子に北辰妙見と木花開耶姫とが祭ってあります。
静かに読経が始まりました。
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無上甚深微妙法 百千萬劫難遭遇
我今見聞得受持 願解如来第一義
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それから声が高くなって、「開経偈」を誦し終ると、他の経文はぬきにして、いきなり御題目にはいりました。
繰り返し繰り返し、御題目を唱えていますうちに、やがて、A女は声がつまってくるのを感じました。肱を張って合掌してる両手に、痺れるほど力をこめ、なお御題目を唱え続けましたが、その声は次第に低く細くなり、瞑目してる瞼のうちに顕現したものがあります。
音なき声が聞えます。
――ミロクだぞ。
間を置いて、また聞えます。
――近々に火が出るから、気をつけたがよかろう。
間を置いて、また聞えます。
――火伏せの神ゆえ、出来るだけは守護してやる。
それから、問答とも知れず会得とも知れない、微妙な境地にはいります。
御題目の声が、次第に安らかに出てきました。気が晴れ、A女は眼を開き、なお暫し御題目を唱え、それからぴたりと切って、最後に
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