を浴びるのは、難儀なことに違いありません。それでも、水行というその無音の声には、どうしても逆らえませんでした。
彼女は起き上って、風呂場にはいり、浴槽に水道の水を注ぎ、そして素裸となりました。
さて水行といっても、バケツで浴びるか、手桶で浴びるか、または洗面器で浴びるかは、その場に至って自然に決定されることです。幾杯浴びるかも、自然に決定されることです。自分の意志によってではありません。過去の経験で彼女はそれをよく知っていました。
その夜、彼女は洗面器を取り上げました。それに水を汲んで肩から浴びました。一杯目はひやりとして、二杯目からはすっきりとして、そして七杯浴びると、ぴたり、手が止りました。
体を拭き、寝間着をひっかけて、室に戻り、衣紋掛の衣類に着替えました。その室は彼女にとって、日常の居室でもあり、寝室でもあり、祈祷所でもありました。彼女は布団を片脇に押しやって、祭壇の前に坐りました。
燈明をあげ、礼拝してちょっと眼をつぶったとたんに、声を立てました。
「あ。」
はっきり見えたのです。大きな二階家の、二階の中程にある、小さな四角な窓から、煙が濛々と吹き出しています……。身禄さん……。「開経偈」を誦しました。次に、「如来寿量品第十六」を誦しました。
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自我得佛来 所経諸劫数
無量百千萬 億戴阿僧祇
常説法教化 無数億衆生
令入於佛道 ……………
[#ここで字下げ終わり]
この経を二回繰り返し、それから御題目にはいって、身禄さんを心に念じました。気も軽く、身も軽くなり、自然に、「宝塔偈」と「発願」とを誦しました。
燈明を消し、寝間着に着替えて、彼女は安らかに眠りました。
翌日になっても、彼女はもう昨夜のことなど気にかからず、家庭の仕事に取りかかりました。
その日の、夕陽がまだ高い頃、江口さんがやって来ました。急いで来たとみえて、額に汗をにじまし、息を切らしています。A女の顔を見ると、いきなり言いました。
「やっぱり、火が出ましたよ。でも、ボヤでよかった。」
「わたくしには、もう分っておりました。まあお上りなさいよ。」
「いえ、そうしてはおられませんの。」
玄関での立ち話しでした。
「どうして、お分りになりましたの。」
A女は昨夜のことを話しました。その落着き払った様子を、江口さんは呆れたように眺めていましたが、こんどは
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