って、下車の仕度に枕の空気を出しかけて、ふと気付いて眺めると、前の席の男は、やはり腰掛の真中に棒のように坐っていたが、頭を軽く動かしながら、如何にも嬉しそうな笑顔をにこにこさしていた。私はその笑顔を眺めて、軽い驚きを覚えた。夜分に電燈の光で見た彼の笑いには、何だか呆けた空洞な無気味さがあったけれど、それが、今は、夜明けの微光に輝らされたせいばかりではなく、如何にも晴れやかな輝きに充実してるようで、自《おの》ずと人の心を惹きつけるものを持っていた。それでもやはり、彼の眼には仄白い曇りがかかっており、彼の薄い唇にはだらけた弛みがあり、額や頬の皮膚は色艶の褪せただだ白さを示していた。そういう眼や口や頬に、どうしてそんな輝かしい笑いが浮べられるか、全く不思議なほどだった。而も私がなお驚いたことには、通路を挾んだ斜め向うの子供が、彼の正面の腰掛の――私が坐ってる腰掛の、先の所まで歩いてきて、其処のところに両手でつかまりながら、彼の笑顔ににこにこ応じてるのだった。二人はまるで友人同士のような風だった。それを子供の母親は、まだ若い束髪の婦人だったが、平気で向うから眺めていた。そこへ、彼の叔父らしい連
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