もやもやしたものを突き破るように、敏子は言いました。
「洋子さんだって、わたしより年上だけれど、まだ独りでいらっしゃるわ。」

 秋田洋子は、中山敏子の同郷の友人でありまして、郷里で女学校を了えると、東京に出て専門学校に学び、親戚の家に寄居して、ある出版社に勤めていました。眼玉のよく動く円い眼をしていまして、それが時によって、ひどく無邪気にも見え、自由奔放にも見えました。
 敏子に結婚問題が持ち上ってる頃、秋田洋子は郷里に帰っていましたが、一度の便りもしなかったあと、出京するとふいに訪れて来ました。
 敏子は飛び上るように喜んで、自室に迎え入れました。
 まじまじと見合うお互の顔は、以前と少しの変りもありませんでした。それだけでもう、本当のお話は済んでしまったようでした。
 敏子は世間話のような調子で、縁談のことを打ち明けました。それについての自分の態度を語りました。洋子はすべて賛成しました。そして言いました。
「今どき、結婚なんかなすったら、もう絶交よ。」
 顔で笑って、大きな眼でじっと見つめられて、敏子は、なにか胸に釘を刺された[#「刺された」は底本では「剌された」]ような気持ちがしました。
 洋子は郷里から、軽く焼いて天日で干したヤマメを、おみやげに持って来ていました。その方へ敏子は話を向けました。
「ほんとに素敵よ。」洋子は眼をくるくる動かしました。「山は新緑になりかかってるし、桜の花はちらほら咲きかけてるし……。河の水は濁って滔々と流れてるわ。」
「濁ってる……。」
「あら、もう忘れちゃったの。雪解けの水よ。河の水かさが増して濁ってくるのが。嬉しかったじゃないの。」
 それは、雪国の人にしか分らないことでした。女学校に上りたての頃から、一家をあげて東京に移り住んだ敏子は、もうそれを忘れかけていました。それよりもまた更に……。
 忘れたのではありませんが、遠いところにそっとしまっておいたものが、身近に現われてきたような工合でした。それを、敏子はいつしか、しばしば想ってみるようになっていました。洋子が帰っていった後も、一人机にもたれて、またそれを想ってみました。
 ――雪の遊びは、ソリから、下駄スケートから、スキーとなるのですが、あの時は、もう女学校に上ろうとしているのに、どうしたのか、しきりにまだソリに乗りたかったのでした。兄が、ただソリを滑らすだけではつまらないと言って、舵をいろいろ工合していたからでしょうか、それとも、あの人がソリにばかり乗っていたからでしょうか。町続きの温泉場に来ていたあの人は、なにか手の届かないような魅力を持っていました。いろいろなことを知っていて、ハイネだの、バイロンだの、ヴェルレーヌだの、そのほか多くの詩人の名前を教えてくれ、その詩を読んできかしてくれました。それから、外に出ると、子供の乗るスキーに乗って、子供のように喜んでいました……。
 晴れた日でした。見渡す限り真白で、というより、真白な光りの中にあるようでした。あの人が、ソリに乗せてあげようかと言いましたので、笑いながら乗りました。あの人のすぐ後ろに腰掛けました。あの人はソリの先端にまたがって、棒切れで舵を取りました。よく滑りました。
 斜面を滑りおりると、こんどはソリを引き上げなければなりませんが、ただ後からついてゆくだけで、あの人が独りで引き上げてくれました。普通に子供たちが行く所よりも、ずっと遠くへ、高くへ、登って、登って行きました。そして二人でソリに乗って滑りだすと、まるで宙を飛ぶようでした。真白な光りの中に、空気が冴え返っていて、それが、さっと頬を撫でました。そして声がしました。
「あなたを愛します。ほんとに愛します。」
 詩の文句だったのでしょうか。いや確かに、あの人の言葉でした。それが深く、耳に残り、心に残りました。
「あなたを愛します。ほんとに愛します。」
 ソリは勢いをつけて滑りました。どこまでも滑りました。そして遂に止りました。
 あの人はソリから降りました。鹿革のジャンパーを着た真直な姿勢で、長い髪を房々と縮らし、血が引いたような冷たい顔をして、遠くを眺めました。その、なんだか清冽な様子は、先程のあの言葉を語った人だとは思えませんでした。それならば、あの言葉は誰が語ったのでしょうか。
「もっとソリに乗せて下さい。」
 あの人は振り向いて微笑しました。そしてまたソリを遠くへ引き上げました。二人は前と同じようにソリに乗りました。
 ソリは滑りだしました。速く滑りました。光りが流れ、空気が流れました。
「あなたを愛します。ほんとに愛します。」
 声がして、ソリは遠く滑ってゆきました。
「あなたを愛します。ほんとに愛します。」
 ソリはますます速く滑りました。
 ソリが止ると、あの人はソリから降りて、同じような清冽な様子
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