旅だち
――近代説話――
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)粽《ちまき》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
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 今年二十四歳になる中山敏子には、終戦後二回ほど、縁談がありました。最初の話は、あまり思わしいものでなく、本人の耳に入れずに、母のもとで打ち切ってしまいました。二度目のは、副島の伯母さんから持ちこまれたもので、母もたいへん気乗りがし、副島さんの家で、それとなく、敏子と先方の当人とを会わせました。
 先方の当人、筒井直介は、りっぱな人柄だそうでありました。副島の伯父さんが重役をしている会社と直結関係にある会社に勤めていました。経済学士で、戦時中動員されて、二年間ばかり陸軍の経理部の仕事をしたことがありました。性質は温厚で、何等の圭角もなく、同僚と諍いをしたことなどはないそうでした。まだ特別な才能は示さないが、至って勤勉で、欠勤率は最も少いそうでした。亡父の遺産が可なりあるので、将来の生活にも不安がないそうでした。嘗て胃腸を少しく病んだことがあるが、現在は全く健康だとのことでした。中肉中背で、色は白い方で、顔立は美男子型だとのことでした。酒や煙草、その他の趣味娯楽、みな中庸を得てるとのことでした。――そういう概説は、縁談としては相当に突きこんだものではありましたが、然し実は何も語らないのと同じでした。
 中山敏子は、それらのことを母から聞かされ、また先方の写真も見せられましたが、すべてが、自分とは無関係な他事のように思われました。終戦後まだ数ヶ月たったばかりですし、結婚などということは心にぴたりとこず、たゞ漠然とした広やかな自由な呼吸に胸をふくらましているのでした。副島さんの家で先方の人と会った時も、わりに平気でありました。
 副島さんの家には、伯父さん伯母さんの結婚記念日の三月十五日に、事業とは関係のない懇意な人々が、毎年招かれました。午後はお茶の集りで、おもに旧知の人たち、夜は食事の集りで、おもに姻戚の人たちでした。その昔、ずいぶん苦しい生活をしていた頃、伯母さんが持って来られた嫁入衣裳をはじめ、主な品物をすっかり質屋に運びこんでしまって、家の中ががらん洞になった、などということがいつも自慢話に持ち出されました。自慢話ですから、もとより、現在の富裕がその裏付けとなっていました。
 その集りが、空襲のために一年とぎれて、終戦の翌年に復活したのです。
 中山敏子は母に連れられて、午後早く副島さんの家へ行きました。いつも夜の組だったのが昼間になったこと、いつもより入念にお化粧をさせられたこと、来客もまだ少いのに座敷へ行かせられたこと、その他いろいろな気配で、敏子は例の縁談に関係があるのを悟りました。
 十畳と八畳とをぶちぬきの広間には、伯父さん伯母さんの外、四五の客人きりでした。そのうちの一番若い人が当の筒井直介であると、敏子は悟りました。ふしぎなことに、お互の紹介は最後までなされませんでした。
 あとで、母は言いました。
「あの時の一番若いかたが、筒井さんですよ。どう思いますか。」
 敏子はいたずらそうな眼付をしました。
「それは、お母さま無理よ、どうとも思いようがないんですもの。」
 答えは、縁談についてでありまして筒井直介その人については、敏子はいろんな発見をしていました。
 彼は、人形のようにまとまった人でした。きっちり体に合った背広服を着て、真直を向いて坐っていました。左右に体をねじ向けることはなさそうでした。白い上向な顔立で、額にかすかな一抹の蔭がありました。その蔭が、顔の表情を抑制して、端正なものにしてるようでした。笑う時にも、声から眼色から顔面の動きなどに、きまった限度があるようでした。心臓の鼓動も常に調子がととのってるに違いないようでした。そしてそれらのことが彼の身にぴったり附いていて、彼は決して眉をひそめることもなく、退屈することもなく、穏かな自足の気持ちでいるようでした。
 副島の伯父さんは、時々、彼の方へも言葉を向けました。彼は自分から話をしだすことはありませんでしたが、他から話を向けられると、当り障りのない中庸を得た返事をしました。つまり、なるべく率直な調子でなるべく何事も言わないという要領を、よく心得ているようでした。けれどこのことについては、敏子にはよく分りませんでした。政治のことや、経済のことや、法律のことなど、しかも敏子にはあまり関心の持てない事柄が、主な話題となっていました。その合間には話題もくだけて、魚釣りのこと、競馬のこと、碁将棋のことなども、持ちだされましたが、そのどれに対しても、彼は
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