問題のありようはなく、結局、何かしらもやもやとしたものから眼を外らして、夢想とも云えないほどのぼんやりした考えに耽るのだった。その間をぬって、身体がまだ時々ひりひりと快よく痛んだ。
なか一日おいて午後、瀬川キミ子から電話がかかってきた。いろいろ話があるからお逢いしたい、どこへでもいいから出て来て下さらない、というのだった。中江はへんに力無い冷淡さで、病気引籠り中なので外出できない、と返事をした。キミ子は何かとぐずっていたが、ふいに元気に、そんならすぐ伺うと云った。そして暫くたって、キミ子がやって来ると、書斎にぼんやりしていた中江は、そこに彼女を通さした。
「御病気ですって、どこが悪いの。」
キミ子は執拗な眼付を彼の方に絡ませてくるのだった。彼はにが笑いしながら、黙って、久しぶりに自分の書斎で彼女を眺めた。断髪と大きな眼と頬の円いふくらみ、それから、皮下に贅肉の多い肉附と脂を浮かせてる皮膚、その二つが、一つは彼女の若々しい快活さを示し、一つは彼女の頽癈的な情慾を示して、別々に彼の眼に映った。ばかりでなく、彼女をそういう風に観察してる自分の視線が、彼にはふと自分のものでなく第三者のもののような気がした。そしてそれを不思議に思ってるうちに、問題がみつかった。
「君は、どうして僕の家に来るのを嫌がるんですか。」と中江はだしぬけに云った。
島村と静葉とのことが頭に浮んだのだった。ああいうこだわりのないしっくりした朗かな仲とは、まるで遠いところに自分たちはあるようだった。
「まあ先生は……。」キミ子は、意外にも、挑戦的な様子を示した。「先生は……あたしと、結婚なさるおつもりなの。そんなこと……。」
彼女の頬に赤みがさしたのを、中江は珍らしく美しいと思った。それが、彼の顔に、微妙なまた厚がましい笑みを上せた。彼女の魂を裳でぎゅっと握りしめるようなものだった。軽い笑みが、にやにやしたねばっこいものになっていった……。
「…………」
キミ子は言葉を喉につまらして、中江の首にとびついてきたが、唇を合せることなく、何かひやりとしたように身を引いて、じっと中江の眼の中を覗きこんだ。もう中江の眼は、冷かな鋭いものを含んでいた。
「こないだの、あの使のひとは……。」
こないだではない。それは一昨日のことだった。
「そう、おとついの、あの声のきれいなひと……。」
「志水英子さん……。」
そしてキミ子は、中江の顔色を窺いながら、話しだした。実はそのことについて、いろいろ話があるのだった。志水英子は、松浦久夫の使でやって来たので、さし迫って二十円の金がいるそうだったが、キミ子は持ち合していなかったので、中江に頼んだのだった。松浦のつもりでは、キミ子のところへ使を出して、実は中江を当にしてたのかも知れない、とそう云って、キミ子は肩をぴくりとさしたが、中江はただぼんやりと聞いてるだけだった。キミ子は話にみをいれてきた。――今日、正午すぎ、志水英子がまたやって来た。だめだという松浦からの知らせだった。N製作所のことについて、中江からいろいろ悉しく聞き知っていた松浦は、中江の伯父の没落について、そこに眼をつけたのだった。職工たちの動きはまるで予期とちがった方へ向いていった。職工長の柴田研三が、こんどの新たな経営者から、可なりの金を握らせられた、そのことが、どこからか職工たちのなかに洩れて、職工長はじめ役員等の排斥が初まって、運動はそれより先のことには進展しなかったのである。西田重吉等の中心闘士が、余りに近視的だったし、余りに熱情的だった。外部からの松浦の働きかけは、効果がなかった。そこへ、昨日の朝、突然に役員等の強硬策が現われてきて、有力な職工たちが検束され、運動は頓坐した。松浦は手を引かざるを得なかった。思想の違いは仕方がなかった。彼等には……と松浦は職工たちのことを云ってよこした……彼等には我等の組合、我等の階級という意識はあるが、我等の職場という本当の意識はない。彼等には権力の意識はあるが、労働の意識はない。彼等に対抗して、自分たちは、職場と労働との意識を明確に把持しながら、ゆっくり進むより外に仕方がない。――その松浦の言葉を、キミ子は暗誦していて、朗読でもするような調子で云った。
中江はキミ子の話にぼんやり耳を貸しながら、頭の中で、次第に明かになってくる映像を眺めていた。柴田研三が訪れてきた理由も大体分ったし、あの声の美しい冷たい女の輪廓もほぼ分ったし、松浦や西田の相反する動向も見当がついた。だがそれは、どんより曇った空の地平線の一角が晴れて、その向うの雲の奇峯が見えてくるように、何かもやもやと立罩めている頭脳の一部が晴れて、その向うの内壁をスクリーンとして、或る映画がうつってくるようなものだった。而もその晴れた部分は小さく限られ、絶えず移動して、次の映像がはっきりしてくるに従って前の映像は消えていくのだった。キミ子が話し終ると、彼はただ黙って首肯《うなず》いた。
キミ子は口を噤んで、中江の様子を窺っていたが、何等か熱烈な意志の動きが浮んでくる筈の彼の顔は、いつまでも不気味に静まり返り、はっきりとした意見を吐露する筈の彼の口は、軽く半ば開いて、白い歯並をみせているきりだった。むなしい沈黙が続いた。キミ子は突然叫んだ。
「先生!」
中江の眼が彼女の方に向いて、彼女はその中を見入ってるうちに、いつしか涙ぐんだ、それから急にそこにつっ伏して泣いた。
「先生は……あたし分っているわ……先生は、恋をしていらっしゃるんでしょう。うちあけて……うち明けて下さらなくちゃいや。」
中江はその肩に手をやっただけで、茫然と眺めていた。キミ子は愛のうちに感傷的に涙ぐむことはあったが、こんな時に、こんな泣き方をするとは、不思議だった。どうしたのかしらと中江は考えるのだった。自分の方がどうかしたのかしらとも考えるのだった。
キミ子は泣きやんで、顔をあげた。
「先生は……不幸な恋を、していらっしゃるんでしょう。」
涙をためてるその大きな眼を見ているうちに、中江ははっきりしてきた。
「そうだ、君はなぜ、自由に僕の家に来てくれないんですか。僕たちは、どうしてこう卑屈なんだろう……。」
彼女の眼からすーっと涙がひいて、黒目が底深く光っていた。そして彼女は彼の肩に縋りついて、ほんとう、それほんとう? と尋ねかけたのだった。卑屈なのは先生の方で、自分はどうなろうと構わないけど、それでも、先生には、恋愛なんかよりも、もっと大きな誇りがあるべきだし、もっと大きな仕事がある筈だ、と彼女は云うのだった。社会的な動き方をしてる者は、個人的な問題に煩わされてはいけないので、そういう意味から、先生はあくまで自由でなければいけないのだ、と彼女は説くのだった。先生にもし不幸な恋でもあるなら、そんなものは忘れてしまわなければいけないし、自分たちはあんまり弱かったから、これから強く生きる覚悟をしなければいけない、と彼女は云うのだった。そうした彼女は、社会運動に関係しながら、バーの女給をしたり、今では啓文社の校正部に勤めたりして、一人で男々しく働いてる彼女だったが、その彼女がいつしか自分で自分の言葉に涙ぐんで、中江の肩により縋り、じっと畳の上を見つめて、唇をかみしめてしまったのである。その厚ぼったい肉体が、汗をかき、脂をうかせて、自分の熱気に喘いでるようだった。中江は何んだか息苦しくなるものを感じ、ふみにじられるような自分の心を感じて、彼女の言葉はうわの空できき流し、さっきの自分の気持に対して、ただわけもなく、嘘だ嘘だ、と胸のなかで叫んで、そんなら真実のものは何かと、ぼんやり考えるのだった。そして彼女の髪がぱらぱらと頬にさわると、我に返ったようにそっと身を引いて、窓の硝子からさしこむ明るい午後の光を、眼をしばたたきながら見上げるのだった。
「すこし、散歩なさらない、ねえ、先生……。」
甘えたようなキミ子の言葉に、中江はいっぺんに引きずられて、ふらふらと立上ってしまった。紙入のなかを調べて、十円紙幣が一枚残っているのを確かめたのが、他人事のように感ぜられた。そして外に出ると、キミ子はもう籠から放れた小鳥のようで、フェルト草履の上に軽快に身を踊らし、その後から中江は、まるで盲人のように機械的についていった。
中江の頭にはその印象がはっきりと残っていた。場所はよく分らないが、ごくゆるやかに湾曲してる街路で、そのカーブの内側の歩道を歩いていると、向う側の大小さまざまな建物の屋根の不規則な線が、まだ夕明りを湛えてる空をくっきりと切取ってるのが見え、その空には、奥深く晴れてる表面に、煙とも霧ともつかないものが、風に吹き起された埃のように流れていて、どこからともなく、まるで夢のように、雨の粒がぱらぱらと落ちてきてはまた止むのだった。その幾筋かの白い雨脚が、街路の暮色を際立たせて、物の輪廓がへんにぼやけ、向うから来る人の顔などは、よく見分けがつかなかった。だが、そのカーブの内側の歩道の向うからぽかりと浮出してくる顔のうちに、見覚えのあるのがあって、彼に――中江に――じっと視線を据え、次第に近寄ってき、誰だか分らないがたしかに知ってる顔で、それが、彼をみつめたまますぐま近になって、首をさしのべて覗きこもうとするほどのところで、すっと行き過ぎてしまった。振向くのも忘れて、はて……と真直を向いたまま考えていると、また、見覚えのある顔が出てきて、前のと同じだかどうだか分らないが、たしかに知ってる顔で、彼の方にじっと眼をつけ、次第に近寄ってき、覗きこもうとするほどのところで、すっと行き過ぎてしまう。そのとたんに、こんどは振向いて見ようと思うのだが、その勇気がなく、別に気恥しいことも後ろ暗いこともあるわけではないが、彼はそこの電柱にもたれて立止り、そのままずるずると腰をすべらして、屈みこんでしまったのである。水の底にでも沈んでゆくような感じだった。しいんとなる……。そして何だか大きな声がしたので、眼を上げると、あんまりよく知りすぎ馴れすぎてるキミ子の顔が、その温い息で、上から蔽いかぶさろうとしてるようだった。彼は突然立上って、さようならと、自分で諾くように軽く会釈をして、茫然と佇んでる彼女の手を取り、その街路のまんなかで、二三度強く打振って、それから、通りがかりの自動車にとび乗ったのである。
そして彼は今、書斎にのんびりと寝ころんで、電燈の光の下で、ばらばらの紙片を、珍らしそうに調べるのであった。置戸棚の抽出の一つに、折にふれて物を書きとめた紙片が投げこまれていて、もうそれが随分たまってるのを、何ということもなく、取出してみたのである。短い感想や、詩みたいなものの断片や、単なる覚え書や、いろんな符諜や……よくもまあこの男は、役にも立たないものを書き散らしたものだった。全く訳の分らないものもあった。その代り、人前に出せないような秘密なものは一つもなかった。世間体を考慮する……というより寧ろ、本能的に体面を守って、怪しげなことは一切闇に葬ったのに違いなかった。だが第一、怪しげなことがこの男に何かあったろうか。ごく平凡な好人物で、怠惰が唯一の美徳であって、そのアナーキズム的な思想も、常識的空想の一つの現われに過ぎなかったのではなかろうか。外からの働きかけを適宜に受け容れるだけで、自分から動きだすことのなかったらしいこの男に、怪しげなことのないのは、当然だった。それでも、彼には――中江には――その書き散らしの紙片がへんに珍らしく、好奇心がもてるのだった。軽い微笑さえ彼の顔に浮んでいた。その反故《ほご》同然な紙片をめくってゆくうちに、ふと、もしこの男が死んでしまったら、これらの反故も何かの価値をもつかも知れない、などと考えるのだった。大抵の者は、何かしらに働いてるものは、死んだあとそれ相当の空虚を世に残すのであるが、この男は恐らく何の空虚も残さないだろうから、それだけにこれらの反故がこの男の存在に代って貴重なものとなるかも知れない、などと彼は考えるのだった。そしてそういう考えが彼に淡い慰安を齎すのだった。彼
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