は安らかな気持だった。ところが、そうした最中に、すーっと襖の開く音がして、そこに政子が立っているのが分ると、中江は真蒼になった。強烈な電気にでも打たれたように、とび上って、つっ立って、唇をわなわなと震わしてるのだった。その反応で、政子も一寸顔色をかえ、襖の陰に身を引いたが、やがて、室の中の様子を眼の中に納めてしまうと、いつもの静かな調子で云った。
「島村さんがお見えになりました。」
 中江は、自分で自分の興奮に茫然としたらしく、無言のうちにうなずいたが、その僅かな身振で力がぬけて、そこにぐったりと身を落した。そして殆んど無意識のうちに、散らかってる紙片をとりまとめて抽出にしまうのだった。
 島村はいつもの無頓着な態度ではいって来て、中江の様子をじろりと見た。そして中江が黙ってるので、煙草に火をつけながら云った。
「お邪魔じゃない?」
 中江は口の中で返事をして、唖者のように首を振った。何かが頭の中から逃げていったようで、ひどく淋しく、がっしりした島村の体躯とその落付いた顔付とを見てるうちに、涙ぐんできそうになった。
「実は、キミ子さんがやって来て、君の様子が変だと、ひどく心配してたようだが……まさか、喧嘩でもしたんじゃあるまいね。」
 冗談らしく見せたその率直な言葉に、中江は少し立直った。視野が開けてくるようだった。そしてその広々としたなかで、キミ子の姿をまざまざと見てとると、もう彼女にもお別れだという気がするのだった。彼女にばかりでなく、あらゆるものに、世の中に……考えようでどうにもなりそうで実はどうにもならないらしい自分の生活にも、お別れだという気がするのであった。自殺……とそれほどのはっきりした形ではなく、自然の成行に任して、そしてその自然の成行で、あらゆるものとお別れだが、然しまた、自殺なんか出来そうもないし、しようとも思わないことが分っているので、あらゆるものにお別れだというのも、結局は空想にすぎないのかも知れない、などと考えるのだった。そして彼は、のんびりと煙草をふかしてる島村を不思議そうに眺めて、自分も機械的に煙草に火をつけてみたが、手先が震えていたので、それをごまかすように、ぼんやり微笑んでしまった。
 島村は怪訝そうな眼付をしていた。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「改造」
   1933(昭和8)年7月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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