立枯れ
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木斛《もっこく》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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 穏かな低気圧の時、怪しい鋭い見渡しがきいて、遠くのものまで鮮かに近々と見え、もしこれが真空のなかだったら……と、そんなことを思わせるのであるが、そうした低気圧的現象が吾々の精神のなかにも起って、或る瞬間、人事の特殊な面がいやになまなましく見えてくることがある。そういうことが、小泉の診察室の控室で、中江桂一郎に起った。
 小泉がキミ子を診察してる間、中江はその控室で、窓外の青葉にぼんやり眼をやりながら、しきりに煙草をふかしていた。てれくさい気恥しさなどは、もう少しも感じなかった。気の置けない友だちの間柄だから、紹介状を持って行ってごらんと、中江がいくら云っても、キミ子は駄々っ児のように顔を振るだけなので、中江はとうとう、自分で連れてくることにしたのだが、暫く躊躇していたキミ子は、俄に承知して、そうなると、知人のうちにでも遊びに行くといった調子になった。身体のことなんか自然に任せておけばよいので、ただ生きていて……そして働いてさえおれば……というのが彼女の平素の主張で、医者にかかることなどは贅沢となる、その贅沢が、今となっては、小泉のところへ――診察は第二として――中江と二人で行くという、或る物珍らしさのために、解消された形だった。だが、中江にしてみれば、彼女が時々胃部や腹部に鈍痛を感じ而もその鈍痛があちこち移動することや、また胸部に圧痛を覚えたりすることなどが、彼女の健康の全般的の衰微を暗示するように思われ、どこか一定の箇処の病兆よりも、一層気にかかるのであった。そうした彼女が、病気なんかどうでもよいと、ふだんは投げやりな態度をとっていて、さて、中江が一緒に小泉のところへついてきてくれるとなると、わりに容易く承知してやってくる、そのことが、中江の心にはひしと、重荷みたいになって感ぜられるのだった。その重荷を背負って、而も自宅からのように装って、昨夜の二人の宿から電話をかけて、昨夜のままの肉体を運んできたのである。キミ子にとってはもう、昨夜からのことは跡形もなく、今日は今日といった調子で、しきりに小泉のことなどを尋ねかけるのだった。――「医学博士って肩書は、何んだかお爺さんくさくって、若い人には、却って損ね。」彼女らしい意見で、これから診察を受けるなどという気持は、遠くへ薄らいでいた。それに中江も引きこまれて、変に図々しいものを心の片隅に押しこんで、小泉の家まで来てしまった。出迎えた小泉は一切をのみこみ顔に、てきぱきと事を運んでくれ、それに対ってまたキミ子は、普通の話でもするような態度で、既往の身体の調子を述べ立て、そして二人で隣りの診察室にはいっていったのである。
 ――やはり来てよかった。病気でも何でもないかも知れない。
 そんなことを、煙草の煙の間にぼんやり考えるほど、中江は落付いていた。診察が手間取るのも気にならなかった。そしてやがて、診察室から出て来た小泉の言葉もそれを裏書してくれた。
「別に何でもないようだね。尤も、一回みただけではよくわからないけれど……。」
 それを逆に、一回みてよく分らないくらいなのは大したことでないと、そういう態度で、煙草をふかし、看護婦をよんでお茶などを勧めるので、中江も益々いい気になっていった。そこへ、衣服をなおしたキミ子が勢よくとびこんできて、誰にともなくお辞儀をして、にこにこと笑って、中江と並んで椅子にかけた。
 その時、小泉は、初めて見るかのようにじっとキミ子の上に視線をすえて、短くかりこんだ口髭にちょっと威厳をもたせて、徐ろに諭すように云うのだった。
「少し胃が悪いようですね。それも、食物の用心だけで充分で、薬をのむほどのこともありますまい。そのほか、別に異状はないようです。血圧をはかるにも及ばないでしょう。……ただ、しいて云えば、神経の衰弱が少しあって、そのため過敏になって、ちょいちょい自覚的な故障を覚える……といった程度のものですね。然しそういうことは、忘れてしまうに限りますよ。衰弱と過敏とが一時にくる厄介な代物ですから、気にすればするほど結果は悪くなる、というようなわけで……。」
 そこで彼は一寸微笑をみせて、診察的な眼付を中江の方に移してきた。
「君なんかの方が、よほど病人だよ。りっぱな胃病患者だし、それになお、組織の弛緩てやつで、診察の価値があるね。」
 その言葉が、ぽつりと宙に浮いた。というのは、先程から、医学博士小泉省治の前に、キミ子も中江もへんに神妙になってたところへ、診断が――キミ子を安心させるための好意からではあったろうが――ふいに中江の方へとび移ったので、そしてなおいけなかったことには、キミ子が中江の方にちょっと眼をあげたために、二人相並んで被告席についているという立場を、はっきり露出さしたのだった。それがまた、二人の肉体的関係をも露出さしてしまった。初めは思想的同感の伴ったものだったにせよ、今では変に錆びついてしまってる関係だった。中江のまわりに小鳥のように飛びまわっていたキミ子は、一種の求心力に引かされるかのように、次第に彼の方へ全身的にのしかかってくるし、中江の方では過去に対する疑惑嫉妬から、むりにも彼女を繋ぎとめようとするし、そうした結果息苦しくなると、キミ子はわざと冷淡な態度を装い、中江はしいて花柳街の酒に浸るのだったが、その無理が更にお互を求め合う気持をそそって、キミ子の方では神経が苛立ってくるばかりだし、中江の方では健康を害するばかりだった。そしてそれをお互に投影しあって、自分の方がお留守になり、キミ子は中江の神経の苛立ちを気遣っては、やけに電話ばかりかけてくるし、中江はキミ子の健康の衰えを気遣っては、感傷的な酒を飲むようになる。もともと、朗かに……晴れやかに……というのが二人の率直な希求だった筈なのに、事態は逆な方へばかり向いてゆく。中江がキミ子を小泉のところへ連れて来たのも、実を云えば、そうした事態にいくらかでも切りをつけようとする、一つの現れに過ぎなかった。然るに、診察は――もしくは第三者としての公平な言は――何の解決も齎してくれず、ただ事実を改めて証明するだけだった。キミ子は神経の衰弱並に過敏、中江は胃病に組織弛緩。殊にこの、恐らくは筋肉や皮膚や内臓や……否殆んど全身の組織の弛緩は、中江が漠然と而も不断に疑懼していたことだった。いやいや、診察なんかは……とそう咄嗟の反撥の気持が、すぐ側のキミ子の存在に絡まっていって、小泉の視線の前に並んでる二人の肉体が意識され、それがお互の体臭を分ち合ってることが意識されるのだった。
 窓外の木斛《もっこく》の青葉が、日に照され光って、いやに中江の眼にしみた。
 さて、用事は済んだから、という態度で、小泉の調子が一変して、久しぶりだから、あちらで、話していかないかと誘われると、中江は、全く無気力な状態になって、キミ子の方へ、もうこれでいいんでしょうと、先に帰ることを暗にすすめてしまった。キミ子の眼が底光りを帯びて、じっと見据えられたけれど、中江は何の反応も示さなかった。彼女は短い髪の毛をかき上げると、小泉の方へ苦笑に似たしなをして、活発に立上った。
 後に残った二人は、友人として、客間に対座したのだったが、それが中江にはへんに物珍らしかった。彼は近頃、どの旧友をも、ゆっくり訪れるということが殆んどなくなっていた。話は自然に、いろいろ知人の噂に及んでいった。先達て四五人集った時、中江に妻帯させようという陰謀が起りかけたと、そんなことまで小泉は話しだした。三十五歳過ぎの独身生活は、肉体的にも不自然だと、小泉は云うのだった。人間の身体はよくしたもので、これを比喩で云えば、需要供給の関係が自然と調和がとれるように出来ていて、資本の蓄積だの生産の過剰などということは、起らないようになっており、必要なだけの生産と必要なだけの消費とが、円滑に行われて、余計なものは単に通過させられるにすぎない。収支決算の帳尻がよく合っていくのだ。ところが、独身者の身体は、家計簿のない家庭のようなもので、収支の関係がめちゃくちゃになり、生産と消費との平衡がとれない。妻帯は一種の家計簿を備えつけることだ……。或はそうかも知れないと、中江は思うのだったが、現在の自分の経済的破綻――身体のことでなく、実際の生活の行き詰りが、大きく目についてきて、座にじっとしていられないような気が起ってくるのだった。
「尤も、あのひとのように……。」と小泉はふいに云っている。「あのひと、家庭を持ってやしないんだろうね。あのひとのように、やたらに貯蓄ばかりして、脂肪を皮下に死蔵するのは、まだいい方かも知れないが……。」
「いい体質じゃないんだね。」
「え?」と小泉は一寸眼をあげたが、「ああ、あのひとか、そんなところまでは分らないが、脂肪肥満は、とかく、新陳代謝の邪魔になることがあるようだね。」
 実際、どこか新鮮さの足りない身体だと、中江はまたもキミ子のことを考えるのだった。そこへ、小泉のところへ電話がとりつがれて、三時すぎに来て貰えまいかとの知人の頼みだった。折角の日曜もこれだからと、小泉は不平をこぼすのだったが、中江から見れば、研究旁々病院に勤めていて、知人の患者だけを面倒見てやる彼の落付いた生活が、余りに散漫で中心点のない自分の生活に比べて、羨ましくなるのだった。と共にまた、心の憂欝や実際的な悩みを、小泉の明朗な精神の前にぶちまけてしまいたい欲求も感じたが、それが出来にくい卑屈さを見出すと、何かに駆り立てられるような慌しい気持になって、席にゆっくり落付いていられなかった。

 中江は伯父の没落以来、自力で生活を立直す覚悟で、私立大学の語学講義の時間を増して貰うよう、その専任の人に頼んでおいたし、なお、或る書肆と、アンリ・ファーブルの普及版全集の出版契約をして、先ず少年のための読物から次に昆虫記へと、順次に飜訳してゆくつもりで、最初にポール叔父の話に手をつけていたが、学校の方は見当がつかず、飜訳の方は少しもはかどっていなかった。第一何事にも気乗りがしていなかった。始終先の方に空疎な期待だけがあってぼんやり時間を過すのだった。そのくせ、気持だけは忙しかった。彼は小泉の家を出て、初夏の陽光のなかに自分を見出した時、珍らしく散歩の心をそそられたが、それも束の間で、漠然とした期待と気忙しさとのために、まっすぐ自宅へ戻っていった。何か特別な用事が出来てるかも知れない、誰かが訪れて来るかも知れない、名台屋の友人に借金を申込んでおいたその返事が来てるかも知れない……が何よりも、キミ子から電話があるかも知れない……とそんなことが、しきりに彼をせきたてるのだった。ところが家に帰ってみると、いつもの通りで、事件も人も電話もなく、何でもない手紙が二通きてるきりだった。
「電話も、どこからもなかったんだね。」と彼はくり返して尋ねた。
 それでも、昨日から家を空けていたというその時間的な距りが、多少新たな気分をそそって、彼は書斎に坐ってみたが、中途で放り出されてる飜訳の先を読ける気にもならなかった。倦まず撓まない努力は、彼にはもう縁遠いものとなっていた。組織の弛緩……そんなことを彼はまた反芻してみ、キミ子はあれからどうしたろうかと、じりじりしてくるのだった。
 そういうところへ柴田研三がふいにやって来たので、中江はちぐはぐな気持で逢った。柴田とはそれが二度目の応対だったが、中江の癖として、態度には鷹揚な親しみを見せた。だが柴田の方では、へんに警戒の態度で、言葉の真意が掴めないような話し方ばかりした。
「職工たちの空気が、次第に、不穏になってくるようですから、私も心配しています。」
 だが、いかにも職工長らしい大きな身体を、更に大きな洋服にくるんで、どっしりとあぐらをかいてる彼の様子には、心配ら
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