しいところは見えなかった。
「然し今のうちなら、舵の取りようで、どちらにでも動きそうです。」
どちらにでも……というのは、要するに、中江の伯父のものだったN製作所が、伯父の没落と共に人手に渡ったについて、二つの動きが職工たちの間に現れたのであって、一つは、そういう場合、旧社長から従業員に対して慰労手当が出るのが至当で、それを要求しようという運動であり、他の一つは、茲に若干の資金を集めて、それを従業員全体の負担とし、あくまで新社長に反対して、工場を従業員の手で経営しようという運動なのだった。製作所といっても、元来資本十数万円ほどの小さなものなので、若干の金が出来れば、新社長の手から奪い取れる筈だった。そして彼は職工長として旧社長の恩顧を受けてるし、従業員たちも旧社長の人格を徳としてるので、出来るならば後者の方法を取りたいのだが、新社長との交渉のために、果してどれだけの金があればよいのか、その辺の見当がつかずに困ってるというのである。
「そんなことは、僕には分りませんね。」と中江は答えるより外に仕方がなかった。
「左様でしょう、私にも分りませんから、困りました。」
そうして柴田は、如何なることにも顔負けしないだけの皮膚と脂肪とを備えた顔に、微笑の影さえ浮べないのだった。一体何の用件で来てるのか、更に見当がつかなかった。中江はいらいらしてきて、それを率直に尋ねたのだが、柴田は平然として、旧社長の甥御だからただ御報告にあがったのだと、更に不得要領な返事きりしなかった。その図太い態度を見てるうちに、中江は西田のことを思い出したのだった。彼が口を利いて、組合運動の闘士たることを知悉しながら、伯父の会社に入れてやった職工で、憂欝な影のなかに純情を包みこんでるような男だが、それがこの柴田の下で働いてることを考えると、中江は急に好奇心を覚えた。
「話は別ですが、あなたのところに、西田重吉という職工はいませんでしたか。」
「西田……重吉。」
柴田はそうくりかえして、咄嗟の瞬間に中江の様子を窺ったが、それから俄に態度を変えた。
「ああ、あの男ですか……たしかまだ工場にいたと思いますが、勿論、近いうちに解雇することになっている筈です。全従業員の共同経営となると、ああいう男は一刻も置いてはおけませんし、そうでなくてもですが、何しろ、解雇するには、一人の職工でも、時期をみなければなりませんし……。」
それはまた、中江にとっては、意外な言葉だった。賃銀値下げと馘首とに対する絶対反対は、あらゆる場合の主要条項たるべき筈だったのである。その点をつっこまれると、柴田は明かに狼狽の色を見せ、西田は全職工の一致結束を乱すとだけ云って、それから、改革を要する種々の細かな規定などをもちだして、くどくどと説き立てるのだった。そして、共済基金の涸渇から、貸出規定の改正などの点になると、彼は明らかに反動的な立場に身を置いていた。そういう話に中江は耳をかしながら、西田のこと――窮屈そうな態度と、鋭い眼付と、どこかインテリくさい蒼白い顔と、自負のこもった短い言葉附などを、何ということなく思い浮べてるうちに、ふいに形体《えたい》の知れない忿懣の情に駆られた。それは、西田に対する同情からでもなく、ましてイデオロギー的根拠があるものでもなく、彼がいつも被圧迫階級に対して漠然と感ずる同感の念に似たものであって、それだけに広く大きく、盲目的なものだった。彼は一挙に柴田の饒舌を遮った。
「とにかく、あの会社は、もう伯父のものではありませんし、まして、僕には何の関係もないのです。第一、工場のことなんか、僕には全く別な世界です。」
と、そこまではよかったが、中江はなお続けて、職工たちの運動に何の援助も助言も出来ない理由として、愚かにも、自分の貧窮をさらけ出してしまったのである。家は借家、電話は五百円の借金の担保にはいってる、知人から三千円ばかりの借金がある、其他、方々への支払の停滞が千円ばかり、なおさし当り、高利貸の厄介になろうかと考えていることなど、手当り次第にぶちまけてしまったのである。柴田は一寸面喰った形で、口を噤んでいたが、やがて、冷静とも冷淡ともつかない調子で云うのだった。
「いや、別に、御援助を仰ぎに伺ったわけではありませんから……。」そして彼はじっと中江の顔色を窺った。「然し、西田のような男と交際なさるのは、お為になりませんですよ。」
中江は自ら不愉快になって黙っていた。柴田もやがて立上った。いずれまた、会社の方の様子をお知らせに上るから、その節はよろしくと、口先だけの調子で云って、見切りをつけたような笑いを最後に残して、帰っていった。
一体彼は何のためにやって来たのかと、中江は後で考えるのだった。或は予め何の計画もなく、ただ様子を窺い旁々、利益の蔓でもあったら臨機に掴もうと、それくらいの腹だったのかも知れない。然し、単に旧社長の甥だからというだけではなく、これには何か西田が関係ありそうな気がした。少くとも、西田が工場内部で何かやっていることだけは明かだった。ところが、そう分ってはきたものの、以前は左翼闘士としての西田にあれほど好意を持ち、伯父の会社に周旋してやるほどの危険を敢てしたにも拘らず、今は殆んど何の関心も持ち得ない自分自身を見出して、中江はへんにうらぶれた気持になってゆくのを、どうすることも出来なかった。元来彼の性格として、首尾一貫する思想なり意思なりを持続することは甚だ少く、その代り、その時々の気分に囚われて自らそれを弁義《ジャスチファイ》することが多く、そのために、見たところでは、如何にも意志的で自信強そうに思わるるのだったが、そうした自己弁義のための反省は、彼を推進させる力とはならずに、現在の気分に沈湎させる用をしかなさなかった。そういう傾向が近頃では更にひどくなっていた。今も彼はそうした心理の渦みたいなところに巻きこまれて、それに僅かに逆らう気持から、以前の思想運動の仲間の動静や、ひいては多少とも西田のことまで、キミ子を使って探らしてみようかとも考えたのであるが、それも興味のもてない億劫さから、何の動きともならないで、ただ現在のうらぶれた無気力な気分に浸るばかりだった。そしてこのちらと動いた考えに、キミ子のことが浮んだのをきっかけに、また彼女のことを思い耽って、小泉のところで別れたきり電話もかけてこないのは、ふだん始終電話をかけてよこす彼女としては、どうしたことだろうと、そんなことが気になるのだった。
晩になって、夕食がすんでからも、中江は仕事もせず読書もせず、ただぼんやりしていた。そこへ、電話のベルが鳴ると、電気にでもふれたように飛び上った。果してキミ子からだった。――あれからどうなすったの、と尋ねてきた。あたしのことについて小泉さんと何をお話しなすったの、と尋ねてきた。今何をしていらっしゃるの、と尋ねてきた。どこにいるのかときいても笑って答えなかった。そして急にしおれた調子で、二十円だけ借して下さいというのだった。よろしいと鷹揚に答えると、彼女は調子を早めて、これから使の人をよこすからその人に渡して下さい、いずれ後でお話する、とそんなことを云ってしまって、さようなら、またあした……とだけで電話がきれた。
中江はほっとすると共に、何だか物足りなかった。それから身内に疲労を覚えた。寝転んでキミ子の使の者を待った。待つということだけに幸されて、時間が苦もなくたった。
女中が取次いだキミ子の手紙には、「先ほどのもの、この人にお渡し下さい。」とだけの走り書だった。中江はばかにされたような気持で、簡単に拾円紙幣を二枚紙にくるんで封筒に入れ、それを持って玄関に出てみた。三十歳くらいの、髪をひきつめに結った、粗末な黒っぽい着物の女が、玄関に立っていた。中江の姿を見ると、ぎごちない軽いお辞儀をした。それきりで、眼にも口許にも、何の表情も示さなかった。中江がじっと見ると、化粧のない浅黒い彼女の顔は、硬く石のようになった感じだった。
「これを、渡して下さい。」
「はい。」
低いが妙に澄んだ美しい声で、それから、一寸何かを待つように間をおいて、も一度ぎごちないお辞儀をして、そのまま出ていった。影のようなものが、中江の心に残った。初めはすっと刷毛でひいたようなそいつが、次第に大きく拡がっていって、中江からキミ子の姿を奪っていった……。
彼は、思い出したように、島村に電話をかけてみた。不在だった。で彼も、何ということなく外に出た。
吉松の一室に落付いた中江は、もう少し酔っていたし、酔ったふりも多少はあった。
「島村君、来ていないんですか。おかしいなあ……。」
脇息にもたれて、うっとりとした眼付をして、撮み物には箸をつけず、程よく盃をあけてる彼は、どう見ても好紳士だったが、ただ、小肥りの身体と、艶のいい長い髪の毛とに拘らず、眼の光が変に浮いていた。その眼が、眼鏡の奥にじっと見据えられると、神経質な不機嫌さを示すのだった。
「あら一人?」
やって来た静葉が、そう云った時、中江の眼はその不機嫌さを示した。そうのめのめと失望するものじゃないなどと、冗談口を利きながら、彼はじろじろ静葉の様子を――髪形や襟や着物や帯などを、眺めていたが、やがて、ふいに、真剣な調子になって、君は本気で島村君が好きなのかと、だしぬけに尋ねだしたあげく、島村君をいい加減にだますようだったら承知しないぞと、いやに真面目なのだった。別にからんでくるのでもなさそうな調子に、静葉も生一本の調子をだしてしまった。
「そんなら、もし島村があたしをだましたら、どうして下さるの。」
島村と呼びすてにしたのは、ただお座敷の戯れだったが、その調子に変につっかかってくるものを感じて、中江の方で眼をみはった。それは男の腕さ、などと受太刀になりながら、ふと自嘲の気味で、実は島村君には、眼の活発な断髪の美人がついてるようだがと、キミ子のことを、我にもなく持ちだしてみると、静葉は一寸首をかしげてから、それは、たしかキミ子さんとかいうひとではありませんかと、図星をさしてしまったのである。あのひとなら、あたしも一度ここでお目にかかったことがある、という。
「ほう、三人で、この家で……。」
中江はおどけた様子で、片手をあげて頭の真上を叩いたが、それだけでは胸の納まりがつかなかった。もともと島村と懇意になったのも、キミ子の紹介からであるし、キミ子を愛するようになってからは、彼女が島村の家に暫く厄介になったことがあるところから、二人の間を一寸疑ってみたほど、キミ子は島村に馴々しくしていたし、またキミ子の性質からしても、待合の中を見たいという好奇心くらいは持ちそうだったが、それにしても、静葉がキミ子を知ってるということは、キミ子と現在のような関係にある中江にとっては、妙に気恥しい打撃だった。キミ子は嘗てそんなことは色にも現わさないで、中江がこういう土地の酒を飲むことを、中江の健康のために心配してみせるだけだった。ばかりでなく、キミ子の生活の半ばは、実際影のなかに隠れて見えなかった。それに比べると、島村と静葉との間柄が、如何に影の少い公然たる朗かさを持っているかが、中江の眼に映じてくるのだった。
「呼ぼう、島村君を呼び出そうじゃないか。」と中江は云い出した。
「そうね。」
当り前だという調子で、静菓が自分で電話をかけに立っていった。機械的に一寸島田の髪に手をやって、引いてる裾を器用にさばいて、肥った大柄な身体をすっと襖の陰に消していくその後ろ姿を、中江はじっと見送ったが、その眼を膝に落すと、あぐらの足先にたくねたお召の着物の裾に、白いものがあった。よく見ると、そこがすり切れていて、一寸《いっすん》ばかり裾綿が覗きだしているのだった。それを眺めているうちに、彼は酒の酔がさめかかった。久しぶりに吉松へ一人でやって来たのも、行きつけの喜久本へはだいぶ不義理があるからのことだったが、着物の裾の破れから、そうした自分の不如意が頭にはっきり映ってきた。そしてそれが意識のなかに落付くと、逆に腹を据えて、ふみ枝や千代次まで呼
前へ
次へ
全5ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング