び寄せて、賑かに盃を重ねるのだった。彼は大体見栄坊で、世間体もきちんと取繕う方だったので、待合へ不義理をすることなども不愉快だったし、殊に着物の裾のすり切れてることなどは、ひどく気にかかるのだった。
 島村陽一が、芸術家らしい乱れた髪で、のっそりした態度で、屈托のないにこにこした顔で、そこに姿を現わした時には、中江はもう可なり銘酊していた。それでも姿勢はくずしていなかった。意識のなかにどこか冴えた部分があって、そこに、綿の覗きだしてる着物の裾がひっかかるのだった。
「呼びだしてすまなかったが……僕ももう酒の飲みじまいだ。」と中江はばかな弱音を吐いた。
「相変らずだね。」
 だがいつも変らないのは彼の方だった。嬉しいのでも不服でもなさそうに、ただのんびりして、にこにこしている島村を、中江は感心したように眺めるのだった。貧乏なのは昔からで、それで一向苦にならないらしく、ここの家の勘定だって、もう随分たまった筈らしいなどと、平気な顔をしていた。がそれよりも中江の腑におちないのは、彼と静葉との関係だった。彼は彼女の旦那だというようなそうした間柄ではなく、ただのお客と芸者との立場なのに、それでいていやにはっきりと公然としていた。彼は如何なる知人に対しても彼女との仲を隠そうとしなかったし、彼女も如何なる場合にでも公然と彼につきそっていた。彼女は平気で彼の家に出入し、彼の子供たちにまで馴染み、彼も平気で彼女を銀座の人中へまで連れ歩いていた。貧乏な彼がいつまでそんなことをしていられるものやら、また、抱えの身である彼女がいつまで彼一人を守って堅くしていられるものやら、その辺のことをどう考えてるのか、はたからは見当がつかない有様なのだった。それに、中江に云わすれば、どんな男にとっても、くろうととの関係は内緒にするのが当り前な筈なのに、まるで逆に、島村と静葉とは何の気兼ねもなく公然と振舞っていたし、顧みて、中江とキミ子とは明るみを避けるようにばかり振舞っていた。それは自然とそうなったのではあろうが、そうなるだけのものがどこかに潜んでるに違いなかろうし、それが分らないのだった。中江は淋しく惨めになりかかる気持をじっと抑えて、静葉の方を見やりながら、彼女のどこに島村を惹きつけるものがあるのか、探ろうとした。島村はいつだったか、彼女には田園的な朗かさがあると云ったことがあるが、そう云えば、彼女の肥った大柄の身体附、明るい笑い、どこか一徹な伝法らしい気質、でたらめのそそっかしい調子などに、そうしたものが見えないでもなかったが、彫刻を仕事としてる島村の審美心が、そんなものだけで満足してようとは思えなかった。問題は、もっと深い肉体的な機密に属することかも知れなかった。二日も三日も二人きりで一緒にいて、よくあの二人は倦きないものだと、いつか小耳にはさんだ仲居の言葉を中江は今更に思い出しては、一晩一緒にいてさえ、何か感傷的な支持がなければ、すぐに精神的にも肉体的にも反撥しそうになってくるキミ子との仲を、顧みて考えるのであった。そして変に考えこんだ眼で眺めると、三味線をかかえてる静葉の様子が如何にも朗かそうで、その向うには、ふみ枝の立姿が、しなやかな手先の曲線を無数に空中に描き出し、ゆるやかな裾のリズムを畳の上に滑らしていた。……※[#歌記号、1−3−28]どうぞかなえてくださんせ、妙見さんへ願かけて、かえるみちにもその人に……。
「中江さん。」
 呼ばれて中江が振向くと、千代次がさもおかしくてたまらないというふうな顔付をしていた。
「よしきた。二人ともしっかりたのむよ。」
 ※[#歌記号、1−3−28]猫じゃ猫じゃと、おしゃますが、ねこが十二単衣をきるといな、ごろにゃん……までは普通で、それから中江は箸で皿や盃を叩きだした……ごろにゃん、ごろにゃん、ごろにゃん……。ふみ枝がいちばんに笑いだして、それからみんなも、腹をかかえて笑いだしたが、中江はたたき続けた……ごろにゃん、ごろにゃん……。
 くたぶれてくると、中江は気持までぐったりしてしまった。島村はやはりのんびりした笑顔で、鮨がたべたいなどと云いだしたが、静葉が島村に何か囁いて出ていった後で、ひょっと真顔になって、この頃どうだい、と尋ねかけたのだった。そして話が落付いてきて、まじめな話題になると、島村も相当に口を利いた。生命を賭して仕事をするなどということは、人間にはあり得ないことで、自然の成行から、命をかけたように見える結果になるだけのことだ、第一、意志の力なんてものは取るに足りないもので、生きてゆく上の習慣が意志の力と見えるだけのことだ、というのだった。そこで、生活の様式から結果する自然の成行、云いかえれば運命というものを、僕は信ずる……。そういう意見に、中江は賛成する筈だったが、変に、島村に対しても気持がこじれて、意志の力を説き、努力の効果を説きたて、説いてるうちに、自分にもぴったりこないところから、うわずった熱っぽい気分になってゆき、それがまた感傷的な気分をもそそって、しきりに酒をのんだ。三四十分たって、静葉が他の出先から駆け戻ってきて、膝をくずして島村に寄りそいながら、袂で頸筋に風を送ってる様子を、中江は霧をへだてて見るように眺めた。そしてその霧のなかで彼は、ふみ枝としげしげ逢っていてそのままいつしかうとくなっていったことや、キミ子と今のようになったきっかけ――個人生活と社会的生活との話から、恋愛論に及んでいって、ひょいと彼女を抱擁してしまった、偶然のいきさつなどを、遠い昔のことのように思い浮べ、社会問題に強い関心をもって、何かしら為すべきことを沢山夢想していた昔の生活から、現在の自分がぽつりと置き忘れられてるような寂寥を感じ、それに反撥する力もなく、涙ぐましい気持に陥りながら、しきりに酔いを求めて、丁度溺るる者が水面に浮び出ようと※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]く[#「※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]く」は底本では「椀く」]ように、徒らに饒舌ったり騒いだりしてみるのであった。ばかばかしいと気付いても、もう遅いと自分で自分を投げだすのであった。

 夜なかに、中江はぼんやり眼をさました。まだ身体の隅々は影のなかにあったが、頭のしんに、ぽつりと朧ろな燈火がともって……それが、寝室の二触の電気の明るみとなった。その意識のなかで、胃部に不快な重みを感ずると共に、腹部がいやに軽やかで、殊に下腹部には、空腹の極に於けるように、まるで力がなく頼りがなかった。胃部の重みは始終馴れてることだったが、腹部の軽やかさ、殊に下腹部の力なさ頼りなさは、初めてのことだった。それが不安になって、つっ伏しに寝返ってみると、胃の重みはなくなったが、腹の空疎な軽い感じだけが、一層はっきり残った。それがじかに頭のどこかにつながってるようだった。そこに思考の力のぬけはてた空疎なところがあった。そしてそのまわりを、重い雲みたいなものがとざしていた。眠りながら、何かしきりに考えていて、それらの考えが雲になってまわりをとざし、その真中に、白痴に似た空虚が出来たもののようだった。その空虚のところから、もやもやとした雲の壁を物色してみると、どこもここも行き詰りだった。……なんだか、眠りながら仕事のことを考えていたらしかった。やってのけられるかどうか、そんな事を考えていたらしかった。その飜訳の仕事の印税のことも考えていたらしかった。それから、負債のことも考えていたらしかった。すりきれた着物の裾が眼についてたようだった。今後の生活のために、収支の計算もしてみたらしかった。それからまた、キミ子のことも考えていたらしかった。大勢の芸者たちや、いろいろなアナ系の闘士たちが、怪しく入り乱れてるところが、遠景に浮き出していたらしかった。実際にそんなことを考えたり見たりしたのかどうか、そこは分らなかったが、今じっとすかして見ると、どこもここも行詰りになってる感じだった。その息苦しい行詰りの雲を、彼はもちあげようとしてみたが、力がなかった。下腹部の空虚が、あらゆる力を吸いとって、なお空虚のままに残ってるようだった。彼はまた寝返りをしてみた。頭のなか全体が曇り日の夜明けのように白々しくなった。下腹部からは臓腑がぬけて、皮膚か背骨にくっついてるかのようだった。眠ろうとしたが、その気持が消しとんでしまった。たまらなくなって、彼はふいに起き上った。
 まだ酔ってるとみえて、足がふらふらしていた。柱につかまって、何か忘れ物をでも探すように、一寸小首を傾げたが、何をするつもりか自分でも分らずに、電燈に歩みよって、二燭だったのを、ぱっと明るくした。頭がくらくらとした。まだ眼がよくさめないようでもあった。床の間の達磨が、大きく眼をむいて睥んでいた。その側に、細いしなやかな竹に革を巻いた鞭があった。彼はそれをとって、しゅっと空中に打振って鳴らした。それから自分の身体をひっぱたいた。寝間着をぬぎすて、真裸になって、ぴしりと打ってみた。痛みとは全く違う快感があった。股をひっぱたき、腹をひっぱたき、背中をひっぱたいた。小肥りの程よい肉附に、革の鞭は軽快な音を立てて、赤い筋を残した。痛くないのが不思議だった。彼は鞭の音に耳をすまし、皮膚に残った鞭痕に眼をとめ、そしてまたひっぱたいた。そして疲れてくると、突然、我に返ったように喉の渇きを常えた。そこで、鞭をなげすて、赤い縞のはいった身体に寝間着をひっかけ、没表情な顔付を硬ばらして、水を飲みにやっていった。足つきはもうしっかりしていた。

 中江はひりひり痛む身体を床の中に横たえていた。そっと撫でてみると、皮膚がところどころみみずばれに腫れあがっていた。だが、床の間の隅にたてかけてある革の鞭を見ても、何の感慨も起らなかった。凡てが夢の中の出来事のようだった。或はそう思えるほど、彼の精神には張がなかった。ただ懶く、暫くはどうにもならないという気持から、学校の方へは向う一週間休講の電話をかけさしておいた。
 その電話が、三谷政子を心配さしたらしかった。彼女は中江の母方の親戚の者で、一度不縁になってから、もうすっかり再婚をあきらめているらしく、それかって今後の生活の方針を立てるでもなく、凡てを運命に任せたような落付きで、中江家に家事の面倒をみながら寄食してるのであって、年令より老けて四十歳ぐらいには見え、万事おっとりして善良で無口だった。中流階級のこういう種類の婦人は、忙しい活発な家庭では邪魔物となり、淋しい静かな家庭では温良なあたたかみの基となるのであるが、中江のところが丁度この後者で、中江が独身でいてもさほど不自然さが目立たないのも、彼女に負うところが多いのだった。中江は書物を読むでもなく眠るでもなく、ただぼんやり寝ていて、家の中で静に用をしながら時々心配そうに覗きに来る彼女を、改めて見直すように眺めた。かるく雀斑をうかした円っこい彼女の顔は、微笑をも忘れたかのように静かだったが、眼に冷い険を帯びていた。何か怒ってるのかなと、中江は初めて思ったのだが、実際は彼のことを心配してるのだと分ると、彼は今になって云うのだった。実は、ゆうべ少し飲みすぎて、宿酔の気味だし、それに、少々調べ物があるから、一週間ばかり学校を休むので、決して心配なことはないと。そして彼は自ら苦笑したのだが、彼女の眼の冷い険は拭うようにとれて、彼女は子供にでもするように諾いてみせるのだった。
 そうしたことから、中江は当面の問題より彼女の存在の方へ眼を外らし、何かと用を考えだしては、その用を彼女に頼むのだった。彼女のうちには、無言の母親とも云ってよい温良さがあった。然し実は、中江には当面の問題というものはなかった。うわべは整然としてるようであるが、その下に、無気力な投げやりがあって、その投げやりの状態はただ、未来に対する漠然とした期待でもちこたえられてるのみだった。そしてその未来が、いつまでも未来で決して現在にならなくて、投げやりの現在が変に行き詰ってきたこと、それだけのことだった。中江はその中に当面の問題を探し求めたが、探し求めるところに
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