よって却って心が唆られる例は、よくあるものだけれど、私にはそういう暗示は更に働かなかった。余りに馬鹿々々しい気がした。問題は道子一人に在るのではないような気がした。そうだ。道子もその中の一人ではあったが、問題は道子一人に在るのではなかった。それでは誰に?……自ら尋ねてみて私は駭然としたのである。
市内を彷徨してるうちに、私の眼は行き逢うあらゆる女に向けられていた。而もそういう私の眼は単なる路傍の人を見る眼とは違っていた。あらゆる異性の方へしたい寄る青春期の眼、慌しい而も執拗な、恥かしげな而も厚かましい、内気らしい而も露骨な、自分と相手とをすぐに真赤ならしむるような熱っぽい眼、それと同じものだった。私は自ら知らないで、眼の前を通り過ぎるあらゆる女の、髪の匂い、眼の輝き、唇の色、頸筋の皮膚、胸の脹らみ、腰の曲線、足の指先、などを臆面もなく而もひそかに窺っていた。その上、異性をよく知ってる私の眼は、青春期の童貞の夢幻的な眼よりも、相手の各局所を評価するのに鋭利だった。それだけにまた、私の眼には享楽的な実感が濃く裏付けられていた。
問題は誰に在るかを自ら尋ねてみた時、私は初めて右の事実に気付いたのだった。秀子の嫉妬は、或る意味に於て至当だったのである。私はあらゆる女性に、心を――恋愛的な心を寄せていたのだ。あらゆる女性を対象として、現実的気分で塗られた恋愛を空想していたのだ。私の愛情は一人の女を離れて、少くとも心持の上だけでは、あちゆる女の上に分散させられていた。危険と云えば、凡ての女が危険だった。長谷川道子も、友人の妻君も、電車に乗り合した令嬢《ミス》も、劇場の廊下で行き合う夫人《マダム》も、カフェーの女給仕《ウェートレス》も、年若くて或る種の容姿を具えている以上は、皆危険だった。
省みてこのことを気付いた時、私の驚きは如何ばかりだったろう! それは殆んど狼狽にも近かった。私は自分を取り失ったような気がした。妻に集中すべき愛情が一般女性の上に散り失せるということは、良人として最も悪い状態に違いない。而も、妻を殴りつけ市内を彷徨していながらも、遊里に夜を明かさないことをひそかに矜りとしていた私だったのだ。
私は恥しかった。自分の心を制しようとした。然しそういう努力の結果はなおいけなかった。私の遊蕩的な眼は、なお頻繁にあらゆる女性の上に向けられ、また一方秀子の上にも向けられた。私は秀子を家庭内に於ける敵だと看做したのみでなく、また自分の若々しい生命を束縛する軛だと看做し初めた。私のうちに在る遊蕩的な悪魔は、あらゆる女性を享楽するの機会を得ないことに、不満を感じはしなかったが、あらゆる女性を享楽出来ない身分に置かれてるのを、憾みとした。
私は冷かな評価的な眼で、秀子を――妻という名前で自分を束縛してる秀子を、眺め初めたのである。初めて逢った女ででもあるかのように眺めだしたのである。そして見出したのは、彼女の醜い点ばかりであった。馴れきった眼には、彼女の長所は映らないで、短所ばかりが映ってきた。
彼女の眼の縁には、薄暗い隈が出来ていた。わりに細いけれども時々非常に魅力ある輝きを見せる彼女の眼は、その下眼瞼の隈のために、殆んど睫毛の柔かな影を失って、極めて露骨な陰険な光りを帯びるようになった。――眉の間までつきぬけていい恰好の鼻は、その先端に意外にも、小さな瘤を一つ拵えて、其処の皮膚にはざらざらした毛穴が開いていた。そして鼻筋の上、眉の間に、時々ヒステリックな皺が寄った。――真白な綺麗な歯並を覗かせる口は、角が引緊ってるために一寸は目立たないけれど、よく見ると不相応に大きかった。その上、上歯と下歯とがかち合って先端で平らに合さってるために、下唇が少しつき出て残忍な相を作り、それに圧迫されて上唇が萎縮していた。――それを包むふっくらとした頬は、肉が落ちたために深い皺を皮下に刻んで、笑う時や緊張した時に、その皺が表面に現われて来て顔全体を卑しくした。――頸から肩から上膊へなだれ落ちてる線は、しなやかで繊細だったが、その先を辿ってみると、腰と腿との間に急な曲線を拵えて、そのまま足先へかけてすぼんでしまい、全体の立像に不安定な危さがあった。手甲の面積に比較すると手指がわりに長いのに、指先がつぶれたように太くて、爪は縦の長さよりも横幅の方が大であった。そのために、元来は美しかるべき手全体が屋守《やもり》のような感じを与えた。そういう彼女は、殆んど一時間置き位には必ず、時には極めて頻繁に、鼻の両側に大きな皺を寄せて顔を渋めながら、簪か櫛かを髪の間に差込んで頭を掻いた。――甘えた調子の時には、上半身をうねうねと揺らしながら、宛もお手玉でもするような調子で左手で袂を弄んだ。屹となった時には、身体を固く保ちながら、両手を一緒に持ち寄って無意識的に指輪をいじくった。――食事の前には必ず両手で襟をきっと合した。食事がすむと、一寸小首を傾げて、それからお茶を飲んだ。お茶を飲む間に、大抵は香の物を一切れ食った。――寝る時には、寝間着に着代えた後一寸坐る癖があった。朝は、眼が覚めても長く床の中にはいっていた。愈々起き上ると、少しの休みもなく而も気長に身仕舞をした。
私はそれらのことを、一種の皮肉な眼で発見していった。すると彼女は、何の気もつかないらしく、例の糸切歯の金の光りで私の眼をくらまそうとした。然し私には、その魅力が別の意味で感じられて来た。その糸切歯こそ、彼女の我儘な利己的な一轍な残忍さを迎合的な小悧口さで蔽った性質、そのままの象徴だった。
私はこういうことを覚えている。近所に金棒引きの奥さんが居て、種々の噂を方々へ流布して廻っていた。その奥さんが、秀子のことを、生意気で我儘で仇っぽくて而も田舎者らしく、何でも地方のお茶屋か宿屋かそういう家の娘に違いないと、噂をしてるということが、何処からともなく秀子の耳に伝わった。秀子は真赤になって怒り立て、いつかとっちめてやると云い張った。私は彼女の怒り方が余り激しいので、揶揄《からか》い気味に、「そういう風な所もお前のうちに在るよ、」と云ってみた。それがなおいけなかった。彼女は益々憤った。それで私は、あの奥さんの単なる噂に心から苛ら立つのは、自分を向うと同等の地位に引下げることで、教養ある者の取る態度ではないということを、諄々と説いてやった。然し彼女には、私の云う意味がよく分らないらしかった。いつまでも腹を立てていた。その奥さんと途中で逢っても、挨拶もしないらしかった。所が一ヶ月ばかり過ぎた後に、その奥さんと愉快げに談笑してる彼女を、私は見出した。一寸喫驚した。「どうして仲直りをしたんだい、」と尋ねてやった。すると彼女は答えた。「仲直りなんかするもんですか。でも可哀想だから調子を合してやってるんですわ。」そして彼女は影で、その奥さんのことを軽蔑的に悪口し続けた。私には彼女の心理がよく分らなかった。なぜなら、私が説いてきかした教養のある者の取る態度と、彼女の態度は結果に於て多少類似はしていたけれど、心の動き方は全く反対らしかったのである。――前年の年末に、秀子は、遠縁に当る家へと世話になった家へと二つの進物を整えた。一つは、二羽の鳩が古い汚い果物籠の中に押し込んであり、一つは二羽の鴨が進物用の綺麗な籠の中に並べられていた。後者に就ては私も文句はなかったが、前者に就ては少からず驚かされた。そして彼女にそのことを責めた。「これで沢山ですわ、」と彼女は答えた。私は説き立てた、普通の場合なら兎に角、年末の進物として他家へ贈るのにそんな不体裁なことは止したがいい、一層鳩だけにするか、または他方のと同種の立派な進物籠に入れるか、何れかでなければ先方の感情を害すると。然し彼女は平気だった、あの家へならどんな体裁ででも構わないと答えた。「それではお前の気持ちが済むまい、」と私は尋ねた。「何とも思いませんわ、」と彼女は答えた。それで私は、相手の如何によって自分の態度を二三にするのは最も下等なことだと、詳しく説き立てた。すると彼女は、態度は相手によってきめるべきであって、一つの態度で世の中を渡れるものではないと、反対に主張しだした。そして彼女は私の言には頑として応ぜずに、汚い籠のまま鳩を贈ってしまった。――相手の如何によって態度をきめるというのが、彼女の信条であるならば、私は何も云うべきことがない。私が彼女を愛しないならば、恐らく彼女も私を愛しないだろう。愛は心の態度である。実際彼女は、私の心の如何によって自分の心の態度をきめようとしているではないか。心の自然の推移によって、彼女が私を愛しもしくは愛しないのならば、それを私は聊かも憾みとはしない。然し愛を取引視せられることは堪らない。私が理想とする女性は――私に理想の女性があるとすれば、それは……。
ああその時になって、秀子と結婚して二年後になって、私のうちに「理想の女」が眼覚めてきたのである。そして私は初めて、この理想の女に秀子を比較してみた。何という違いであったろう。精神的にも肉体的にも、殆んど比較にならないほどの差があった。然し理想の女の本体は、まだ捉え難い空漠たるもので、少しも具体的のまとまりを有しなかった。ただ、それを秀子と比較してみると、秀子の有する肉体的精神的の醜い点が、一々はっきり浮き出してきたのである。そしてそういう醜い点を一つも具えていないというだけの空漠たる姿で、理想の女が私の前につっ立ったのである。
私はかかる架空的な理想の女を標準として、秀子に厳密なる批判の眼を向けた。そして私の考えは過去にまで溯って、どうして秀子を自分は選んだのであるかという問いに到達した。私はそれに答えることが出来なかった。秀子との会逅、其後の熱烈な恋愛、父母や親戚の人々の非難と反対、それを断乎として郤けつつ払った犠牲、遂に自由恋愛を貫き通した結婚、それまでの経路を回想してみると、私は其処に何等必然的なものを認めなかった。凡てが偶然のうちに運ばれたもののように考えられた。それならば、周囲の障碍をあれほど力強く突破してきた私の意志は、一体何であったか、何処から出て来たのであったか? それは単に青春の空想と悲壮な感激性のみだった。それは凡て私のうちに在ったもので、秀子と私との間の必然ではなかったのだ。秀子でなくともよかったのだ。他の如何なる女性ででもよかったのだ。そしてたとえこういう考えは時の距りと現在の心の状態とに欺かれてるものであるとしても、今眼前に居る秀子は、果して私が一生の伴侶として満足し得らるる女性であるか? 否。それでは、私は一生を不満のうちに終るか、または妻というものに対するあらゆる要求を捨て去るか、二途の外はないのである。……秀子と別れる! 私はその考えを押し進めることが出来なかった。恐ろしかった。余りに恐ろしかった。そして私の前には、ただ選択を誤ったという事実のみが残された。
選択を誤ったのならば、何処かに本当の選択が残されてる筈だった。私は秀子と別れるという考えをはっきり意識せずに、結果を予期せずに、残された選択を探し廻った。街路を彷徨する私の眼は更に執拗になっていった。ああ、理想の女を探し求める、それほど馬鹿げたことがあるだろうか! 理想は常に理想として止るのだ。それは単に吾々の方向を指示するだけで、到達せらるる距離に在るものではない。然し私はそんなことをはっきり考えなかった。運命づけられた「自分の半分」の存在を、現実に信じていたのである。失望は当然だった。私は如何なる女にも理想の女を見出さなかった。そして更に悪いことには、秀子よりもよりよく理想の女に近い者を、多くの女に見出したのである。
昏迷しきった気持ちで夜遅く帰って来ると、秀子は子供に添寝しながら、鎖骨のとび出た胸をはだけたまま眠っていた。もしくは眠ったふりをしていた。朝眼を覚すと、彼女は自分の蒲団に戻っていたが、額には四五筋の髪の毛が、ねっとりとこびりついてることがあった。夜中に夢にでも魘《うな》されたのだろう。その髪も産後の抜毛に薄くなって、生え際が妙に透いて見えた。起き上って髪
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