理想の女
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)投《ほう》り

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21]
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 私は遂に秀子を殴りつけた。自然の勢で仕方がなかったのだ。
 私は晩食の時に少し酒を飲んだ。私達は安らかな気持ちで話をした。食後に私はいい気持ちになって――然し酔ってはいなかった――室の中に寝転んだ。電灯の光りを見ていると、身体が非常にだるく感じられた。秀子は室の隅の小さな布団に、みさ[#「みさ」に傍点]子を寝かしつけていた。その方へ向いて私は、「おい枕を取ってくれ、」と云った。
「しッ! 赤ん坊が寝ないじゃありませんか。」と秀子は答えた。
 彼女の声の方が私のよりずっと高かった。眠りかかった子供が眼を覚したとすれば、それは寧ろ彼女の声のせいに違いなかった。然し幸にも子供は眼を覚さなかった。私は我慢して待っていた。所が秀子はいつまでも起き上ろうとしなかった。私は雑誌を五六頁読んだ。それから秀子の方を見ると、彼女は子供に乳を含ましたまま、いつしか居眠ってるらしかった。
 私は立ち上って、押入から枕を取り出した。そして押入の襖をしめる時、注意した筈だったが、つい力が余って大きな音がした。秀子はむっくり半身を起した。そして、「静かにして下さいよ、」と云った。
 その言葉の調子が如何にも冷かに憎々しかった。私は癪に障った。それで、また例の通りだとは思いながらも、其処にどたりと枕を投《ほう》り出して、わざと大きな音がするように寝転んでやった。
「赤ん坊が眼を覚すじゃありませんか。」と秀子は云った。「眼が覚めたら寝かして下さいますか。」
「ではなぜ枕を取ってくれないんだい。」と私は答えた。
「それ位御自分でなさるが当り前よ、私ばかりを使わなくったって……。」
「じゃあお前は、いつも使われてる気で僕の用をしてるのか。心からこうしてあげようという気はないのか。」
「では御自分はどうなの。子供で手がふさがってるからという思いやりは、少しもないんですか。」
 そういう水掛論が喧嘩の初まりだった。然しそれは具体的な事実を離れて、お互の態度に及ぶ抽象的な問題になったために、どちらも云いつのるだけではてしがなかった。そして、口論の最中に俄に沈黙が落ちて来た。苛ら立った憤りが、じりじりと胸の奥に喰い込んでいった。……とは云え、いつもはそれきりで済むのであったが、不幸にも、丁度その時速達郵便が玄関に投げ込まれた。「速達!」という配達夫の声に、「はい。」と秀子は答えたが、立っては行かなかった。その様子と、「はい。」という返事の落付いた調子とに、私は赫となった。
「取っといで!」と私は怒鳴った。
 秀子は黙っていた。
「取っといでったら!」と私はまた怒鳴った。
 秀子は眉根をぴくりと震わしたまま、じっとしていた。私はじっとして居れなかった。枕を取るが早いか、それを秀子めがけて投げつけた。枕は的を外れて、縁側の障子に当り、障子の中にはまっている硝子を一枚壊した。その物音にみさ[#「みさ」に傍点]子が泣き出した。秀子はそれを抱き取った。私は眼をつぶって仰向けに寝転んだ。
 硝子の壊れた音を聞きつけて、台所からはる[#「はる」に傍点]がやって来た。秀子ははる[#「はる」に傍点]に硝子の破片を掃除さした。そして、はる[#「はる」に傍点]が向うに立ってゆき、子供が眠ってしまった後、秀子は私の方へ坐り直して云った。
「あんな野蛮なことをなすって、もしみさ[#「みさ」に傍点]子が怪我でもしたらどうします!」
 私は飛び起きて、歯をくいしばった。掃除がすみ子供が眠ってしまってから、冷かに真剣に談判を初めたのだ。彼女はまた云った。
「卑劣な! 自分に恥じなさるがいい。」
 その言葉を聞いて私は我を忘れた。「自分に恥じるがいい。」とは、私が彼女を責むる時によく用いた言葉である。その言葉が如何に苛ら立った心を刺戟するかを、私は初めて知った。私は身体を震わしながら、右の拳を振り上げた、そして叫んだ。
「何だ、も一度云ってみろ!」
「ええ幾度でも云います。」と彼女は甲走った声で答えた。「卑劣です。野蛮です。私を打つつもりなら、打ってごらんなさい!」
 私は振り上げた右の拳を打ち下し加減に、彼女の肩を押して突き倒そうとした。彼女はその手にしがみついて来た。もう仕方がなかった。取られた手で彼女を其処に引きずり倒し、左手で彼女の頬に一つ強打を喰わし、立ち上りさま、彼女の腰のあたりを蹴飛した。彼女はがくりと畳の上に倒れ伏したが、その執拗な手先はなお私の着物の裾に取りついてきた。私は彼女が理性を失いかけてるのを見た。それに反して、私の方には非常に明晰な意識が働いてるのを見た。私は堪らなくなった。そして彼女の狂暴な手を払いのけるや否や、ぷいと外に飛び出した。子供の泣き出す声が後ろから聞えていた。
 実に嫌な――というより寧ろ醜い心地だった。彼女を殴りつけてる瞬間の自分の姿が、如何に呪わしい様子であったかを私は感じた。「随分大きな口ね、」と彼女からよく云われていたその口が、殊に大きく裂け上り、鼻が頑丈に居据り、両眼が真中に寄っていたに違いない。握りしめた拳は震え、呼吸は気味悪いほど深く抑え止められていた。そして、そういう私が飛びかかっていって殴り倒したのは、「彼女」をでなくて「彼女の肉体」をであった。柔かな円っこい弾力性のある、海綿を水母《くらげ》に包んだような而も生温い香りのする、「彼女の肉体」をであった。その肉体の背後には、執拗な「彼女」がつっ立って、あくまでも私に反抗しようとしていた。私の手先にしがみつき、私の着物の裾に取りついて、瞋恚の爪を私の胸に立てようとしていたのだ。私は逃げるより外に仕方がなかった。逃げる――と云えば、私は初めから逃げ出していたのだ。切瑞つまった場合になると、暴力が最後の避難所となることもある。私は拳を振り上げた時、「も一度云ってみろ!」と叫んだ時、彼女が折れて出ることをどんなにか待っていたろう! 恐れ入ったという色を一寸見せてさえくれたら……もう止して下さいという様子を一寸見せてさえくれたら……振り上げた拳の下から一寸身を引いてさえくれたら……私の気はそれで済むのであった。然し彼女はそうしなかった。あべこべに私の気勢を上から押っ被さって折り拉ごうとした。それでも私は、拳をすぐに打ち下さないで、少し手を引いて、ただ彼女を押し倒そうとしたのである。然し彼女はそんなことに頓着しなかった。真正面から私に向って突進してきた。凡ての期待は空しくなった。私は逃げ途を失った。もはや一方の血路を開くより外に仕方がなかった。私は殴りつけた。蹴飛した。而も、私が其処に打倒したものは「彼女の肉体」であって、「彼女」はあくまでもいきり立って私に飛びついて来たではないか!
 そういう彼女を、一歩も譲ることを知らない彼女の心を、是非とも挫いておく必要があると私は考えた。そうでなければ、まだこれから幾度も同じことが起りそうだし、その度毎に私は困難な立場に陥りそうだったのである。些細なことから私達は口論をすることがよくあった。二三日後まで反抗的な沈黙を守るほど激しい口論も、何度かくり返されていた。所が此度そういうことが起ったら、もう掴み合いに終るの外はないように思われた。幾度も抑えに抑えられた暴力が、既に飛び出した後だからである。而もそういう暴力の結果はどうであるか? 責任が私一人にかかってくるのみである。彼女は「女である」という便利な楯を持っている。一歩も譲らないで私につっかかって来たこと、不条理に苛ら立ってきたこと、そういう微細な――実は最も重大な――問題は、「殴られた」という事実の背後に影を潜めてしまう。そして「殴った」という責任が全部私の上にのしかかってくる。喧嘩の瞬間には、男も女も対等に――否多くは女の方がより攻勢的に――相対抗するものであるということを是認しても、殴る殴られるという結果の差は、溯って男を非難しがちである。動機の如何に拘らず、強い方が不当だと常に結論されがちである。私はそういう不条理な損害を受けたくない、そういう危い境地へ踏み込みたくない。それには、彼女に折れ屈むことを教えて置かなければいけない。彼女の心を挫いて置かなければいけない。
 憤激の余り私は右のように考えた。然しこの決心は如何に根の浅いものであったか! 私は頭で到達した帰結に満足して、それを胸の奥に移し植えるだけの労を取らなかったのである。
 二日間、私達は互に口を利かなかった。その間私は、一方では秀子に対する憤りを無理に自ら煽り立てながら、一方では秀子が我を折ってくるのを待ちあぐんでいた。
 二日目の夕方――その日は冷たい雨が午後から降り出していた――私は、まだ電灯もつかないのに、秀子が縁側の雨戸を閉めているのを見た。室の中が真暗になりそうだった。
「もう少し開けとおき!」と私は尖り声で云った。
「みさ[#「みさ」に傍点]子が風邪をひくじゃありませんか。暗くても温い方がよござんす。」と彼女は答えた。
 私が枕を投って壊した障子の硝子は、まだそのままになっていた。私への見せしめか知らないが、彼女は新たに硝子屋へ頼むこともせず、または紙をはって一時の間に合わせることもしなかった。ぽかりと口を開いてる四角な穴からは、冷かな空気が流れ込んでくるようだった。
「硝子をはめさしたらいいじゃないか。」と私は云ってやった。
 秀子は何とも答えないで、雨戸を閉め切ってしまった。室の真暗な中に、私は一人置きざりにせられたような気がした。その時電気が来た、俄に明るくなった。私達は互の視線を避けた。すると――ああ、女のでたらめな口先よ!――秀子は急にこう云った。
「硝子をはめさしても宜しいんですか。」
「はめないでどうするんだ!」と私は答えた。
「じゃあなぜ早く仰言らないの。」
「お前の方が黙ってるじゃないか。」
 何だか馬鹿々々しかった。馬鹿々々しい気持ちが動いてきた。そして、それが喧嘩の終りだった。私達はまた口を利き出した。万事が平素の状態に返った。その上、この余りに妥協的な不自然な和解は、感覚の陶酔によっても助けられたのである。
 斯くて私の決心は、いつのまにか泡沫のように消え去ってしまった。消え去るのが当然だった。私の内心は寧ろそれを望んでいたのだから。私にとっては、彼女の性質を矯正したいという欲求よりも、彼女を所有したいという欲求の方が、より直接でありより強いのであった。そして彼女を殴ったことによって、私は終局彼女に武器を一つ多く与えたのみだった。
 秀子は私に右の頬を殴られてから、その奥歯が痛んで止まなかった。――彼女は美事な歯並を持っていた。上下揃った細い真白な歯並で、而も下歯が上歯の奥にはいり込んで合さるということがなかった。上歯の先端と下歯の先端とがいつもかち合っていた。そのために、物を食べる時奥歯を噛み合せるのに、口元へ可愛らしい皺が寄った。またそのために、平素唇が薄く細そりして見え、その唇の仇気ない子供らしい微笑の隙間から、上下揃った美事な歯並が覗き出した。なおその上、右上の糸切歯に金が被さっていた。普通は、糸切歯が虫に腐蝕されることは極めて稀であるが、彼女は真先に糸切歯がやられたのである。彼女にとってはそれが偶然の天恵だった。美わしい歯並の奥からぴかりと黄金色に光る糸切歯は、彼女の微笑みに云い知れぬ魅力を与えていたのである。それは兎に角として、この糸切歯から一枚飛んだ奥の下歯が、以前から虫に蝕されていた。時々痛み出すこともあった。然しいつもすぐによくなった。所が此度は、三四日たっても痛みが止まなかった。「あの晩からよ、」と彼女は云った。私は冷りとした。そして無理に歯医者へ通わした。
 歯医者の言葉に依れば、その虫歯は可なりひどくなってるので、セメンをつめ金を被せるのには、二週間余りかかるとのことだった。そ
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