を束ねるのに、長く時間を費した。表皮だけが白くて底艶のない顔をしながら、鋭い光りの眼で冷かに私に対した。そして殆んど熱狂的に、終日子供の世話ばかりやいていた。晩になるとよく居眠りをした。冷たい沈黙が家の中を支配した。そして同じような日々が、今に何か起りそうな危い瀬戸際をするすると滑るように、而も事もなく明けてはまた暮れた。私は殆んど書物も読まず仕事もしなかった。二階の書斎に寝転んだり、外へ出かけたりした。
そういううちに、私はふと千代子の夢をみるようになった。――千代子というのは私の叔父の一人娘で、私は幼い時からよく知っていた。始終往き来をしていた。そのうちに、私が大学に進み彼女が女学校の上級になると、隙が少いのと何だか憚られるのとで、いくらか疎遠がちになったけれども、互の心は両方から歩み寄っていた。彼女は四年級の時から卒業まで引続いて、然し慰み半分に、旧派とも新派ともつかぬ和歌を学んでいた。時々私へ自作の添削を頼んできた。私の方が彼女よりずっとまずかった。私が筆を入れた歌は余り先生から誉められなかった。それでも、私も彼女も満足していた。友情とも愛情ともつかない心が、次第にごく静かに深まっていった。その時、私と秀子との暴風のような恋愛がはじまった。それは凡てを吹き払ってしまった。所が間もなく、千代子は十八の秋に、肋膜と横隔膜とを同時に病んで、短い臥床の後に死んでしまった。私は彼女の位牌の前で、しめやかな涙を流した。それには秀子との恋愛の感激から来る涙も交っていた。私は秀子に彼女のことを話した。「あなたはその方を愛していらしたのでしょう、」と秀子は尋ねた。「愛してはいたような気がする。然し恋してはいなかった、」と私は答えた。其後私達は二人で、千代子の墓参りをしたことがあった。――その千代子のことを、私はふと夢みるようになった。何故だか私は知らない。恐らくは、理想の女を求めあぐんでいた私の心は、記憶の隅々までを漁って、気まぐれに彼女の色褪せた姿を捉えてきたのであろう。なぜなら、やがて理想の女と彼女の幻とは、私の頭の中で一つになってしまったから。
私は屡々その夢をみた。何れも、何等の場面も事件もない、断片的なものばかりだった。彼女と遊んでる所(何の遊びだか分らなかった)、話をしてる所(何の話だか分らなかった)、黙って向い合ってる所(何処でだか分らなかった)、彼女が一人で佇んでる所、そういう極めて瞬間的なものばかりだった。然し夢からさめた後で、何だか妙な気がした。他の凡てのことがぼやけて、彼女のみが馬鹿にはっきり残っていた。勿論その顔立や姿などはぼんやりして分らなかったが、「彼女だ、」ということだけが明瞭に頭へ刻み込まれた。その上、夢の後で変に不安な胸騒ぎがした。どうも不思議だったのでつい秀子へ口を滑らすこともあった。「そうお、」と秀子は簡単に答えた。私も大して気にはしなかった。
所が、度重なるに従って、私は気になりだした。千代子の夢をみた後で、彼女に対して、しみじみとした、やるせないような、胸が苦しくなるような、変梃な気持ちを覚えた。しまいには、夢をみないのにみたと、眼を覚す瞬間に感ずるようになった。そして、私は一種の愛着を彼女に対して懐くようになった。その愛着の情が次第に募ってくると、いつのまにか「理想の女」と「彼女」とが一体をなして、私の心を惹きつけてしまった。私は夜早く寝るようになった。外へ出かけて早く帰って来るようになった。夜中に何度も眼を覚した。それは何とも云えない蠱惑的な楽しみだった。私はその怪しい瞬間的な愉悦に、自らつとめて耽ろうとまでした。そしてなお私が心を惑わしたことは、秀子までが彼女の夢をみたのだった。
或る朝、秀子は私に云った。
「今朝がた、千代子さんの夢を見ましたわ。」
私は驚いて彼女の顔を見つめた。そして口早に尋ねた。
「え、どんな夢? 何をしてた所だ? そして、初めてなのか、また何度もこの頃みるのか?」
私はへまだったんだ。秀子は私の様子を見て、何かに慴えたように肩を縮め、暫くじっと私の眼の中を覗き込んだ後に、漸く答えた。
「覚えていません。」
「覚えていないことがあるものか。どんな夢だったんだ?」と私はたたみかけて尋ねた。
彼女の様子は俄に変った。彼女は冷笑的に答えた。
「あなたは、まるで恋敵きみたいな調子ね。」
私は何か大きなものにはね飛ばされたような気がした。云い知れぬ憤りで頭が熱くなった。手の届く周囲を見廻した。敷島の一袋が眼にはいった。それを取るといきなり彼女へ投げつけた。煙草は彼女の所まで届かないで途中で落ちて散らばった。
「馬鹿ッ! 恥を知るがいい!」
そう云いすてて私は二階へ上った。
然し、書斎の中でほっと我に返ると、私は顔が真赤になった。私こそ恥を知るがいいのだ。私はじっとして居れないで、室の中を歩き出した。縁側に出てみた。卓子の前の椅子に腰を下した。窓から外を覗いてみた。そして漸く気分が和らいだ。然し、取り返しのつかないことをしたという惨めさが、深く私の心に残った。
嫌な――嫌忌すべき日が続いた。絶えず冷笑的な眼で秀子から窺われてることを私は感じた。その眼は私の夢の中までも覗こうとしていた。私は数日前に千代子の夢を見たと思って眼覚めた時、自分が遺精してることを知った。その時はさほど気にしなかったが、今になって思い出すと、穴にでもはいりたい気がした。それでも私は、秀子の執拗な眼付から隠れて、やはり千代子の夢をみ続けた。夢をみて夜中にふと眼を覚すと、先ず秀子の方を顧みた。そういう懸念のために私の清らかな千代子の幻は、どんなに毒されたことであろう。私は秀子を本当に憎む気になった。然し千代子はもう故人なのだ! 私はどうすることも出来ない淵へ陥ってゆく自分を見た。恋人に別れる悲痛さはまだ堪えられる。亡き人に恋し初めたという悶えは、どうすることも出来なかった。
或る夜、私はまた千代子の夢から覚めた。隣りの床に寝てる秀子の方を窺うと、彼女は眠っていた。私は仰向に真直に寝返って、天井を仰いだ。絹覆をした電灯の光りが、室の中に薄ぼんやりと湛えていた。夢のような静けさだった。私は天井に眼をやりながら、消え去った幻の跡を追っていた。長い時間がたった。と、何かに私はぞっとした。あたりにそっと気を配ると、秀子がぱっちり眼を開いて、私を見つめていた。私は息をつめた。じっとしていた。暫くすると低い落付いた声が聞えた。
「あなたは、千代子さんの夢をごらんなすったんでしょう。」
私は黙っていた。
また囁くような声が聞えた。
「私もみました。」
暫く沈黙が続いた。
私は秀子の方へ顔を向けた。彼女は大きく眼を見開いて、なお私の方を見つめていた。
口をきっと結んで、頭をがっくりと枕にのせ、瞳を据えていた。その顔全体が仄白い蒼さで浮き出していた。まるで死人の顔だ。私は冷たい戦慄が背中に流れるのを覚えた。すると、彼女もそれを感じてか、急に布団をはねのけて、上半身を起した。そして私の方へ向き直ると、慴えたような調子で叫び出した。
「私はもう嫌です。あなたと一緒の室に寝るのは。二階に寝て下さい。気味が悪くって嫌です。」
私は惘然として、急には言葉が出なかった。暫くして尋ねだした。
「何が気味が悪いんだ?」
彼女は黙っていた。
「千代子さんの夢をみるのが気味悪いのか。」
彼女は身動きもしなかった。
「僕が千代子さんの夢をみるのが気味悪いのか。」
彼女はやはり身動きもしなかった。
「何が一体気味悪いんだ?」
彼女はじっとしていた。
私は急に気が苛ら立って来た。どんなことを自分が仕出かすか分らないと思った。じりじりと時間が迫ってゆくような心地だった。私は叫び出した。
「云わないのか。何が気味悪いんだ? 黙ってると僕はどんなことをするか分らない。どんなことになるか分らないんだ。云ってごらん!」
彼女は冷たい没感情的な声で云った。
「あなたの様子が気味悪いんです。」
「僕の様子が?……」
私は続けて何か云ってやろうと思ったが、言葉が見付からなかった。じりじりしてきた。然し、私はその時、自分がやはり仰向に寝たままなのを気付いた。仰向にじっと寝たままで叫んでる自分の姿が、私の心にはっきり映じた。そのことが苛ら立った感情を引き緊め澄み切らして、其処に喰い止めてしまった。私は意識が中断されたような透徹した心地になった。彼女は半身を起したままじっとしていた。
私達は黙っていた。長い間だった。私は落付いた調子で云った。
「僕の様子が気味悪いんだって? お前は嘘を云ってるね。……然しそれならそれにして置こう。もう尋ねない。だがお前は自分の様子がどんなに気味悪いか、自分で知らないだろう。」
彼女は何とも答えなかった。それでもやがて、静にまた横になって布団を被った。私もそれきり口を噤んだ。だいぶ暫くたってから、彼女がすすり泣いてるのを私は気付いた。然し黙っていた。今更どうにも仕方がないと思った。
翌朝私は、悪夢に魘《うな》された後のような気分で床を離れた。自暴自棄の感情が動いていた。一方には軽くはしゃいでる感情もあった。滑稽なおどけた感情もあった。そしてそれらを、白日夢の惑わしい気分が包んでいた。私は自分自身がよく分らなかった。秀子は私に一言も口を利かなかった。私は無関心だった。書斎にぼんやりしていると、壁に掛ってる父の肖像が眼についた。生きてるようにありありと父の姿が浮んできた。……私ははっと卓子を一つ叩いた。そうだ、千代子の写真に逢って来よう! それから先はどうにでも、なるようになるがいい!
出かける時に、私は秀子へ何か一言云ってやりたかったが、言葉が見つからないうちに、私の身体はもう玄関を出ていた。私は真直に叔父の家へ向った。
それは、恋人に逢いに行くような気持ちでもなければ、恋人の写真を見に行くような気持ちでもなく、何だか神秘なものを覗きに行くような感じで、而も捨鉢な気持ちだった。私は途中から電車を捨てて、辻俥に乗り、幌をすっかり下した。
叔父と叔母とは、僅かな財産を一生のうちにゆっくり食いつぶす覚悟で、ただ隙つぶしに漢学の僅かな弟子を取るだけで、小さな借家に閑散な日を送っていた。私が訪れると、丁度二人共在宅だった。
私は随分長く姿を見せなかったことを詑びた。然し二人はそんな疎遠不疎遠などを頓着するような人ではなかった。私が顔を上げると、いきなり叔父はこう云った。
「やあ随分痩せたようじゃないか。どうしたんだい。顔の色も悪い。」
私は種々なことを尋ねられそうなのを恐れて、すぐこう切り出してみた。
「実は急な用で上ったんです。千代ちゃんの写真を一寸見せて下さいませんか。」
私は自分でも少し声の震えるのを感じたが、叔父は気付かないらしかった。
「千代子の写真、妙な物に用があるんだね。死んだ者は仕方がないじゃないか。……おい出しておやりな。」
私は叔母の方へ云った。
「よく似た人が居るものですから……。なるべく新らしいのが見たいんです。一枚だけで沢山です。」
叔母は手文庫の中から、最近の――死ぬ学年前の写真を取り出してくれた。私はそれを手に取って、眼をつぶったまま膝の上で披き、そしで眼を開いてみた。
ああその時私は、どんなに驚き、次には冷たくなり、次にぼんやりしてしまったことだろう。千代子の顔は、「彼女」――否「理想の女」とは、殆んど似もつかぬものであった。半身を少し斜にした姿が、肱掛椅子にかけ、手には扇を持っていた。その顔をよく見ていると、なるほど見覚えのある親しい点が一つ一つ出て来た。それは千代子に違いなかった。斜め左から両方へ分けられた髪が、冷悧な広い額を半ば隠していた。眉尻が心持ち下り、眼尻が心持ち上っていた。はっきりうち開いた眼の中に、艶やかな瞳が上目がちに置かれていた。下唇が殆んど目につかない位に歪んで、軽く上歯に噛まれてるような心持ちを与えていた。額から細り加減に落ちている双頬の線が、奥歯のあたりで一寸膨らんで仇気なさを作り、細い三角形の頤に終っていた。
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