慢罵に変っていった。私も彼女も、後に退こうとしなかった。彼女は云った、「あなたは子供を目の敵にしてるのね。」私は云った、「お前は子供を武器にして僕に対抗してるんだ。」彼女は云った、「あなたは私達と一緒に暮したくないんでしょう!」私は云った、「お前は僕を家から追い出したいんだろう!」しまいには口を噤むより外に仕方がなかった。然し、いつもの喧嘩なら、互に殴り合わんばかりに激昂し熱してくるのだったが、この時ばかりは、反感や憤りが内へ内へと沈み込んで、二人の間の空気は、氷のように冷たくなった。表面だけが冷然と落付き払って、心の底が暗い影に脅かされた。私達は長い間、石のように固くなってじっと向い合っていた。その或る日、私は外に出ないで、終日書斎にとじ籠っていた。訳の分らない懸念が、私を家の中に引止めたのであった。私はしきりに階下の物音が気になった。然し家の中は静かだった。何事も起らなかった。夕食は沈黙の間に終った。私はまた二階に上った。しいて書物を読んだ。気を落付けるために、長谷川へ手紙――取り留めもない感想――を書いた。そのうちに気が散らなくなった。私は凡てを忘れて、近着の外字小説を読み初めた。
 何時《なんじ》頃だったか私は覚えていない。あたりはしいんと静まり返っていた。夜遅く書物を読んだり考え事をしたりしていて、ふと我に返ると、何等の物音も聞えず、何の気配もせず、時もその歩みを止めてるような静けさがあたりを支配し、宛も深い水底にでも陥ったような心地がし、凡ての物象が妙に冴え返ってくる瞬間が、よくあるものである。私はその晩、そういう瞬間にあった。そして、骸然と夢から醒めたかのように、或は一挙に悪夢の中へ投げ込まれたかのように、強い衝動を受けて椅子から立上った。……向うの襖がすーっと音もなく開いて、秀子が、石のように身を固くした秀子が、真直に私の方へ歩み寄って来たのである。彼女は総毛立った顔をしていた。真蒼な頬に深い皺を刻んで――私が嘗て見たことのない生々しい陰惨な皺を刻んで、底光りのする眼が、影のない硝子のような眼が、露わに飛び出していた。朝顔の花が淡く絞り出された単衣の寝間着を着、細帯を腰に巻いたままのその姿は、下半身に受ける電灯の光りが弱々しいせいか、宛も幽霊のように思われた。私は息をつめて、一瞬間無言のうちに彼女と向き合ってつっ立った。それから、最初の驚きをほっと一息吐き出すと、初めて現実に返った。やはり秀子自身だった。寝ていたのを起き上って、そっと私の室へ上って来たのであった。私はまた椅子に腰を下した。
「どうしたのだ、そんな姿をして。」と私は云った。
 秀子は私の卓子の横の方へ、他の椅子を引寄せて腰掛けた。暫く黙っていた。落付き払っていた。そしてこう尋ねてきた。
「何を考えていらしたの。」
 私はどう答えていいか分らなかった。彼女はまた云った。
「私がはいって来ると喫驚なすったわね。何を考えていらしたの。」
 いやに真剣なものを、私は彼女のうちに見て取った。そして、つとめて平静を保とうとした。
「だって突然音も立てないではいって来たんじゃないか。僕は初め幽霊かと思った。喫驚するのは当り前さ。」
 彼女は一寸鼻の先で、軽蔑的な笑い方をした。それからまた暫く黙っていた。
「何か用があるのかい。」と私は尋ねた。
「いいえ、何をしていらっしゃるのか一寸見に来たのです。」
 然しすぐその後で、彼女は急に顔を引緊めて、真正面から私に向って来た。
「私は今晩こそ、本当のあなたの心をききたいんです。そしてはっきりときまりをつけたいんです。」
「何のきまりをつけるんだ?」と私は平気を装った調子で答えた。彼女は私の言葉には頓着なく、先へ云い進んだ。
「あなたは、私に隠していらっしゃることがあるんでしょう?」
 私ももう真剣にならざるを得なかった。卓子の上に両腕を組んで、椅子に坐り直した。
「何を隠してると云うんだ。何にもありはしない。」
「心の中で苦しんでいらっしゃることがあるんでしょう。私にうち明けられないことが……。」
 私には彼女が何を云ってるのか見当がつかなかった。それで、自分の苦しんでいることと云えば、彼女もよく知ってる通り、どうして彼女と喧嘩ばかりしているか、どうしてこう反目し合うようになったのか、そればかりだと云った。これから先はうまくゆかないものか、どうしたら昔のような状態になれるか、そればかり考えてるんだと云った。自分の態度も悪い、然し彼女の態度にも悪い所がある、それをお互に矯正し合ってゆきたいものだと。
 彼女は私の言葉を耳にも入れないかのように、書棚の方へ眼を外らしていたが、然し心では私の底意を窺っていたが、途中で俄に私の言葉を遮った。
「いいえ、そんなことではありません。」
「では何だい? お前が真剣に尋ねる以上、僕も真剣に真面目に、何でも本当のことを答える。うち明けて云ってごらん。」
「私が云い出さなければ、どこまでも隠し通してみようというつもりなんでしょう。でも私にはよく分っています。いくらごまかそうったって、ごまかせるものですか。」
「だから何のことだか云ってごらんと云ってるじゃないか。自分から押しかけてきといて……。」
「図々しいと仰言るんですか。あなたの方がよっぽど図々しいじゃありませんか。」
 そして、私達の会話はぐるぐる同じ所を廻るだけで、いつまでも中心に触れてゆかなかった。このままでは例の喧嘩に終るの外はないと思った。そして一挙にきり込んでいった。
「お前は、僕がお前を愛さなくなったとでも云うのか。」
「さあ、どうですか。」と彼女は空嘯いた調子で答えながら、口元に皮肉な皺を寄せた。先刻からの焦燥の念が俄に反感に燃え立ってくるのを私は覚えた。
「愛さなければどうするというんだ!」と私は怒鳴りつけてやった。
「私がどうしようとあなたに関係はありません。」と彼女は答えた。「勝手にその女と一緒におなりなさるがいいわ。」
 私は呆気にとられた。茫然と彼女を見つめると、彼女は私の視線の下にじっと唇をかみしめていたが、倭に肩を震わして私の方へ向き直った。
「私はいつまでも厄介者にされていたくありません。出て行けと仰言るならいつでも出て行きます。云われなくったって私の方から出て行きます。」
 私は黙っていた。
「その女と結婚なさるがいいわ。けれど私にだって意地があります。どんなことになろうと、その時になって文句を仰言らないように、断っておきますよ。」
 私は自分の心が静に落付いてるのを感じた。笑いもしなければ、別に驚かれもしなかった。そして冷かに云った。
「お前は、僕が誰かに恋してるとでも思ってるのか。」
 彼女は答えなかった。
「僕ははっきり云っておく、僕には他に恋人なんかありはしない。……然し、お前は一体誰のことを云ってるんだ?」
「あなたは、まだごまかそうとなさるんですか。御自分の心に尋ねてみなさるがいいわ。」と彼女は答えた。
 穿鑿的な一種の興味が私のうちに湧いてきた。自分に覚えがないだけに、いやに頭が落付いていた。そして私は、知ってる女性の名前を一々挙げて尋ねた。彼女はそのどれにも、肯否の答えをしなかった。然し私が、「では夢の女なんだろう。」と嘲り気味の言葉を発すると、彼女は俄にいきり立った。そして「私に恋人があること」を、遠廻しに立証していった。私が始終出歩いてばかりいること、家に居ても様子に落付きがないこと、然し遊蕩を初めたのではないこと、なぜなら、酒気を帯びて帰ることも稀であるし、一晩も外泊して来たことがないから、そしてまた、女は子供を育てるのみが務めではないとよく云ってること、いやに何かを考え込んでばかり居ること、出かける時の慌しい様子のこと、みさ[#「みさ」に傍点]子に対して冷淡な素振りが多くなったこと、だから、「誰かに恋し初めてるに違いない。」という結論に達するのであった。
 私は云った。
「ではお前は、僕とお前との愛について僕がどんなに苦しんでるか、それを少しも知らないのか。」
 彼女は答えた。
「苦しんでは長谷川さんなんかの所へばかりいらっしゃるんでしょう。」
 私はつと身を起した。長谷川の妹のことを、道子のことを、彼女は考えていたのだ。
「お前は道子さんのことを考えてるんだね!」と私は叫んだ。
「いいえ、道子さんとは限りません。」
「馬鹿なことを云うな!」私はそれを押っ被せて云った。そして、長谷川の家へ屡々行くのは、いつもいい意味の気分を与えられるからであること、道子さんに対しては嘗て愛を感じたこともないし、これからも愛を感ずる恐れは決してないこと、第一文学なんかをやろうという女と恋することは、自分のような寧ろ家庭的な男には適しないこと、自分が長く苦しんでいるのも、自分のうちに家庭的な気分が濃いからだということ、そんなことを考えると道子さんにどんな迷惑を及ぼすか分らないこと、などを私は急き込んで説き立てた。
「どうだか、今に分ることですわ。」と彼女は答えた。
 私達は口を噤んだ。問題の中心にぶつかると、其処から先へは進めないで、未解決のまま止るの外はなかった。そうだ、「今に分ること」だったのだ。私はじっとしていた。彼女も私の卓子の横につかまりながら、身動きもしなかった。寝間着のまま素足で、眉根に皺を寄せ口をきっと結んで、眼を見据えていた。このままでいつまでもじっとしていたら、どんなことになるか分らない、と私は思った。夜が深く静まり返って、氷のような沈黙が落ちて来た。
「もうお寝み!」と私は云った。
 彼女は答えなかった。
 私は椅子から立ち上って、室の中を歩きだした。「お寝みよ!」と私はまた云った。彼女は黙っていた。私は歩き続けた。彼女の耳の後に垂れたほつれ毛が、堅くなって震えるのが見えた。「お寝みったら!」と私は三度云った。「あなたお寝みなすったらいいでしょう、」と彼女は答え返した。私はなお室の中を歩き続けた。それからまた椅子に坐った。自分の心がまた彼女の心が、最も悪い状態にあるのを私は感じた。私はじっと彼女の姿を見つめてやった。反感が、殆んど完全と云ってもいいほどの敵意が、私の身内を震わした。その時私が飛び掛って彼女を殴りつけなかったのは、彼女が寝間着一枚の素足のままで石のように固くなってるからであった。
「勝手にするがいい!」
 そう私は云いすてて、階下へ下りて行った。みさ[#「みさ」に傍点]子はすやすや眠っていた。私は堪らなくなって、着物のまま蒲団の中へもぐり込んで、夜着を頭から被った。頭が熱くなっていて、足先がぞくぞく冷たかった。傍の蒲団の中に寝ている秀子の姿を見出したのは、翌日眼を覚してからだった。
 そして、私達は朝から口を利き出した。然しそれは、如何に冷かな用件のみの言葉だったろう! 二人の間に深い溝が掘られたことを、私は感じた。激しい喧嘩の末、私達は二三日言葉を交えないことがあったが、それでもそういう反目は、お互に一つの根で繋ってるという意識から来る苛ら立ちで、繋りながら争ってるという苛ら立ちで、助長せられたものであった。所が今や、二人を結びつける根が断たれたような冷かさが、互に別個なものになったというような無関心さが、二人の間に挾まってきたのである。濡いのない言葉――感情の籠らない言葉を、互に時々交しながら、或る破滅を期待する恐れで、心を固く鎖していた。
 それが私には堪え難かった。家庭に於ける彼女の圧迫から来る息苦しさは、前方に破滅を予期する息苦しさに変っていった。而も彼女の弁解――あの場面《シーン》の中心問題――に再び触れることは、益々お互の心を遠ざけるもののように感ぜられた。「どうにでもなるようになれ!」そう私は半ば悲壮に半ば捨鉢に考えては、やはり外へ飛び出すのであった。私の心の底に、彼女と別れてそう惜しくはないという気持ちが流れているのを、私はまだ気付いていなかった。家に帰って来ると或る不安な恐れが私を囚えた。然し彼女は家の中に澄し込んでいた。道子のことをも再び云い出さなかった。
 私の足は長谷川の家から次第に遠のいていった。人から疑われることに
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