、何だか嫌な人達だから、あなたが来て下されば、逃げ出すのによい口実になるから、なるべく早く来て下さいって。……丁度いいじゃありませんか。うんと御馳走さしておやりなさいよ。武蔵亭、御存じでしょう。片山の会社のすぐ近くの西洋料理屋。……私も一緒に行きたいけれど、お前が来ちゃあ都合が悪いって、人を馬鹿にしてるわ。」
達子が平気でそう云うのを見て、昌作はまた一寸変な気がした。彼の頭に、その瞬間に、或る漠然とした疑惑が生じたのだった。禎輔の胸の中に何かがあるのではないかしら? 昌作は先日の禎輔の様子を思い出した。
暫く考えてから彼は、達子の言葉に従って、兎も角も武蔵亭へ行ってみようと決心した。何かを得らるればそれでよいし、得られなければ上等の洋酒でも沢山飲んでやれ、とそんな気になった。そして、今からではまだ早いと達子が云うのを、下宿に一寸寄って行くからと断って、慌だしく辞し去った。
彼が立上ると、達子は後から送って来ながら云った。
「後で、明日にでも、どんな話だったか、私に聞かして下さいよ。私一寸気になることがあるから。」
昌作は振返った。然し彼女は先を云い続けていた。
「でも、何でもないことかも知れないわ。案外いい話かも知れないわ。……それから、その女の人のことね、気持がきまったら聞かして下さいよ。その方は私の受持だから。……私がうまくまとめてあげますから、ほんとに、心配しないでもよござんすよ。」
昌作は外に出て、急に、何だか達子へ云い落したことがあるような気がした。といって、それが何であるかは自分でも分らなかった。考えてもおれなかった。禎輔の話というのがしきりに気にかかった。
けれど、実際達子が云ったように、すぐに行っては食事中だと気がついて、途中で電車を下りて少しぶらついてから、まだ早いかも知れないとは思いながらも、待ちきれないで武蔵亭へはいって行った。
片山の名前を告げると、彼はすぐボーイに案内されて、二階の奥まった室へ通された。そして一目で、自分の疑惑が事実であることを見て取った。
一方が隣室との仕切戸になっていて、三方白壁の、天井が非常に高く思える、狭い室だった。天井から下ってる電燈の大きな笠と、壁に懸ってる一枚の風景画との外には、殆んど装飾らしいものは何もなく、真中に長方形の卓子が一つ、椅子が三四脚、そして小さな瓦斯煖炉の両側に、二つの長椅子が八の字形に並べてあった。その一方に、外套と帽子とを傍に放り出して、背広姿の片山禎輔が、先刻からぽつねんと待ちくたびれて、そして何か考えに沈んでいたという風に、腰掛けていたのである。――昌作は初め、禎輔が他の客と会食中なのでこの室に待たせられることと思ったが、一歩足を踏み入れて禎輔の姿を認めるや否や、はっと思った警戒の念から、それらのことを一目に見て取った。
禎輔は先程からの沈思からまだ醒めないかのように、顔の筋肉一つ動かさないで、それでも落着いた声で、彼に云った。
「遅かったね。すぐに来るようにと云ったんだが……。」
昌作は一寸どぎまぎした。
「でも、あなたは他の人と会食なさるというお話でしたから、時間をはかって来たんです。もうお済みになりましたか。」
「うむ……。」と禎輔は曖昧な答えをした。「君は食事は?」
「済みました。」
うっかりそう遠慮深い答えをしたのに、昌作は自ら一寸面喰った形になって、急いで一方の長椅子に腰を下した。
「じゃあ、何処かへ酒でも飲みに行こうか。どうだい? 君のあそび振りも一寸見たい気がするね。」
昌作は不快な気がした。揶揄されてるのだと思った。彼が先《せん》にちょいちょいあそんだのは、禎輔等のそれと違って――禎輔が会社の方の交際でそんな場所に時々足を踏み入れていることを昌作は知らないではなかった――それと違って、比べものにならないほど安っぽい所でだった。而も彼は近来、そんな所からさっぱり足を抜いてしまっていたのである。
「いやに変な顔をするじゃないか。」と禎輔は云った。「酒を飲むのだって仕事をするのだって、結局は同じことだろうよ。どちらも生きてる働きなんだからね。。……だがまあいいさ。それなら、此家《ここ》に上等の葡萄酒があるから、そいつでも飲もうよ。」
禎輔はボーイを呼んで、料理を二三品と、フランスから来たあの上等のを瓶のまま二本ばかり持って来いと命じた。そして、それが来るまで彼はやたらに金口《きんぐち》を吹かして、昌作にもすすめた。昌作もやはり黙ってその煙草を吹かしながら、向うから話し出されるのを待った。が禎輔の言葉は、彼が全く予期しない方面のことだった。
「僕はね、」と禎輔は葡萄酒の杯を挙げながら云い出した。「芭蕉の句集をこないだから読み出してみたのだが、僕のような門外漢にもなかなか面白いよ。そして、ふと馬鹿なことを思いついて、こころ[#「こころ」に傍点]という字があるものだけをより出してみたのさ。何でも十四五句あったようだ。みんなは覚えていないが……実際そう胸にぴんと響くのは少いようだね。
[#ここから3字下げ]
魚鳥のこころは知らず年のくれ
七夕のあわぬこころや雨中天
葉にそむく椿や花のよそごころ
椎のはなの心にも似よ木曽の旅
住つかぬ旅のこころや置火燵
[#ここで字下げ終わり]
その他まだ沢山あったがね、そのうちで僕の心を惹いたのが二つあるよ。
[#ここから3字下げ]
もろもろの心柳にまかすべし
野ざらしを心に風のしむ身かな
[#ここで字下げ終わり]
この二つのうちで、君、文学的に云ってどちらが傑れてるのかね。君は僕よりもこんなことには明るいのだろう……。」
昌作は、禎輔が先日持出した句のことを思い出した。
「あなたの云われるのは、文学的価値ではなくて、思想的価値のことでしょう?」
「そう、思想的価値、先ずそんなものだね。……僕は野ざらしを[#「野ざらしを」に傍点]の方が先達てまでは好きだったものさ。所が其後、もろもろの[#「もろもろの」に傍点]の方が好きになったよ。そして、君を……また自分を、余り苦しめたくなくなったのだ。」
昌作は驚いて禎輔の顔を見つめた。が禎輔は、じっと葡萄酒の瓶の方に眼を注いで、何度も杯を重ねた。
「君、この葡萄酒は旨《うま》いだろう。こいつを一人で一本ばかりやっつけると、愉快な気持になって踊り出したくなるよ。君もっとやらないか。」
「ええ。」と昌作は答えておいて、機会を遁すまいとあせった。「それで……そのことで……私は九州へ行かなくてよくなったのですか。何だか私にはさっぱり分りませんけれど、奥さんが……。」
「ああ、達子は何と云っていた?」
「九州へ行かないでもいいし、それに……あなたが私に急なお話があるとかで……。」
「それだけ?」
禎輔の眼付が急に鋭くなったのを昌作は感じた。彼は何にも隠せない気がした。
「それから、私の……女のことについて。」
「君はその女のことをすっかり達子に話したのか。」
「いえ、その方のことは私が引受けてやると奥さんは云われたんですけれど、まだ私の方の気持がはっきりしないものですから、詳しくは話しません。」
「それだけか、達子が君に云ったことは?」
「ええ。」
「達子は君が何処かの令嬢に恋《ラブ》したんだと云ってたよ。」
「令嬢じゃないんです。」
「でも若い女なんだろう?」
「ええ。」
禎輔はまたそれきり黙り込んでしまった。昌作は不安な予想に駆られて、苛ら苛らしてきた。
「急なお話って、どんなことですか。」
「君は、僕がなぜ九州なんかへ君を追いやるのかと疑ったね。」
禎輔は急に額を曇らせながら、ゆっくりした調子で云った。昌作は喫驚した。そして急いで弁解しようとした。その言葉を禎輔は遮った。
「君が疑うのは道理《もっとも》だよ。そして、実は、君がその疑いを達子へ洩らしたために、僕は可なり安心したのだ。うち明けて云えば、僕は達子に暗示を与えて、君の心を探ってみたのさ。すると、達子がうまくその使命を果したというわけだよ。」
昌作にはその謎のような言葉の意味が更に分らなかった。禎輔はまた云った。
「君が達子へ向って、片山さんはなぜ私を九州なんかへ追い払おうとなさるんでしょう、と云ったことと、それから、君に若い恋人《ラヴァー》があるということとで、僕は自分が馬鹿げたことに悩んでるのを知ったのだ。そして、いろいろ考えてみて、一層何もかも君にうち明けて、さっぱりしたいという気になったのだ。……これだけ云えば、君にも大凡分るだろう?」
然し昌作には更に分らなかった。彼は何か意外なことが落ちかかってくるのを感じて、息をつめて待ち受けた。
「じゃあ、君は知らなかったのか」と禎輔は低い鋭い声で云った。「そうでなけりゃ、忘れてしまったのだ。……いや知ってた筈だ。」
「何をです?」
「僕と君のお母さんのことを。」
「あなたと母のこと?」
禎輔は彼の眼の中をじっと見入った。
「僕と君のお母さんとの関係さ。」
「関係って……。」
その時昌作は、今迄嘗て感じたことのない一種妙な気持を覚えたのである。頭の中にぽーっと光がさして、すぐに消えた。そのために、もやもやとした遠い昔の記憶の中に見覚えのあるようなまたないような一つの事柄が、眼を据えても殆んど見分けられないくらいの仄かさで浮き出してきて、それが一寸した心の持ちようで、現われたり消えたりした。夢の中でみて今迄忘れていたことが、突然ぼんやりと気にかかってくる、そういった心地だった。勿論、一つの場面も一つの象《すがた》も彼の記憶に残ってはしなかった。けれど、何だかそれをよく知っていたようでもあった。知っていながら忘れていたようでもあった。漠然と感じたまま通りすぎてきたようでもあった。或は初めから知りも感じもしないのを、今突然想像したようでもあった。――彼は見えないものを背伸びして強いて見ようとするかのように、じっと自分の記憶の地平線の彼方に眼を定めたが……ふいに、そうした自分自身に気がついて、顔が真赤になった。
「君はあの頃もう十一二歳になってたから、普通なら当然察するわけだが、頗る活発で無頓着で今とはまるで正反対の性質らしかったから、或はぼんやり感じただけで通りすぎたのかも知れないが……。」
そこまで云いかけた時禎輔は、昌作が真赤になってるのを初めて気付いたらしく、突然言葉を途切らしてじっと彼の顔を見つめた。そして急き込んで云った。
「君は知ってたじゃないか!」
昌作は宛も自分自身に向って云うかのように、低い声で呟いた。
「昔から感じてたことを、今知ったようです。」
「昔から感じてたことを今知った……。」そう禎輔は彼の言葉を繰返しておいて、俄に皮肉な調子になった。「なるほど、そうかも知れない。君のお母さんは利口だったからね、そして僕も利口だったのさ。そして君はうっかりしてたものだ。」
昌作はもう堪え難い気持になっていた。彼は哀願するような眼付を、じっと禎輔の顔に注いでいた。それを見て禎輔は、非常な努力をでもするもののように、肩をぐっと引緊めて、それから落着いた調子で云った。
「許してくれ給い。僕はこんな風に云う筈じゃなかったのだが……。僕は君が非常に素直な心持でいることを知っている。そして僕も実は素直に話したいのだ。」そして暫く黙った後に彼はまた続けた。「僕が高等学校の時だ。君の家が、君とお母さんと二人きりで淋しいものだから、僕は君の家に寄宿していたね。あの時、僕は君のお母さんを姉のように募ったし、君のお母さんは僕を弟のように可愛がってくれた。そして僕達は極めてロマンチックな愛に落ちたのだった。僕は小説家でないから、それを詳しく説明出来ないが、君にも大体は分るだろう。そんな風だから、普通そういう関係にありがちな、猥らなことなんかは、少しもなかったのだ。君がはっきり気付かなかったのも、恐らくそのせいだろう。だが君も知ってる通り、僕がこちらの高等学校を出ると、わざわざ京都の大学へ行ってしまったのは、実はそのことを罪悪だと意識したからだった。然し僕は君のお母さんに対しては、今でも清い愛慕の念を持っている、姉と母
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