婚でもするまでは、僕は彼女の親しい友人として、彼女と交際を続けるでしょう。
君は……人は、僕を卑怯だと思うかも知れません。然し卑怯だか勇敢だかは、外的な事柄できめられるものではありません。と云って僕は、勇者にも怯者にもなりたいのではありません。ただ僕の所謂天は――僕自身の天は、澄みきっていると共に変に憂鬱です。
五
宮原俊彦の話は、佐伯昌作に、大きな打撃――と云うより寧ろ、大きな刺戟を与えた。昌作はその晩、何かに魅せられたような心地で、ただ機械的に下宿へ帰っていって、冷たい布団を頭から被って寝てしまったが、翌朝八時頃に眼を覚して起き上った。そんなに早く起き上ることは、彼としては全く近頃にないことだった。
起き上って、珍らしく温い朝飯を食って、さて何をしていいか分らないで、火鉢にかじりついて煙草を吸い初めた時、急にはっきりと前晩のことが見えてきた。――俊彦は話し終ってから、何かを恐れるもののように黙り込んだのだった。長い話の後に突然落かかってきたその深い沈黙が、一種の威圧を以て迫ってきて、昌作も口が利けなかった。それから俊彦はふいに眼を輝かして、「子供達が待ってるに違いない、」と云いながら立上った。昌作も後に従った。俊彦は非常に重大な急用でも控えてるかのように、馬鹿々々しく帰りを急いでいた。足早に電車道をつき切って、タクシーのある所まで行ってそれに乗った。昌作も途中まで同乗した。二人は別れる時碌々挨拶も交さなかった。夜は更けていた。
それらのことを眼前に思い浮べながら、彼はじっとしておれない心地になって、表に飛び出した。雨後の空と空気と日の光とが、冷たく冴えていた。彼は帽子の縁を目深く引下げ外套の襟を立てて、当てもなく歩き出した。歩きながら考えた。
然し彼の考えは、長く一つの事柄にこだわってるかと思うと、それと全く縁遠い事柄へ飛んでいったりして、少しもまとまりのないものだった。がそのうちで、幾度も戻ってきて彼を深く揺り動かす事柄が一つあった。
彼は宮原俊彦の話を、可なり自然にはっきりと受け容れることが出来たが、その終りの方、沢子と一緒になれないという所が、どうもよく分らなかった。生活の接木などという変な言葉を俊彦は用いたが、そんな深い重大なことではなく、何かごく平凡な――常識的な事柄が、彼を支配してたのであって、それへ無理に理屈をつけたもののように、昌作には思えるのだった。そしてその平凡な常識的な事柄がまた、昌作には、自分の想像もつかないことであるような気がした。非常に平凡で非常に曖昧だった。而も一方には、その平凡な曖昧なものの上に、俊彦自身が云ったように、彼の運命が重くのしかかってるらしかった。――そしてそのことが、昌作を或る暗い所へ引きずり込んでいった。彼は何だか形体《えたい》の知れない壁にぶつかったようで、息苦しさまで覚えた。「つきぬけなければならない、つきぬけることが必要だ、」そう彼は心で叫んだ。それと共に、沢子に対する愛情が激しく高まってきた。彼にとっては、宮原俊彦こそ、沢子へ縋りつこうとする自分を距てる毒虫のように思えた。――けれど、不思議にも、宮原俊彦に対するそういう反感は、昼間の明るい光の中でこそしっかりしているが、夜にでもなって、何か一寸した変化でもあれば、すぐにわけなく消え去っていって、全く反対のものになりそうなことを、彼は心の奥の方で感じたのである。――昌作はどうしても落着けなかった。何とかしなければならなかったが、それが分らなかった。
彼は考え込みながら、ぶらりぶらり歩いた。そのうちに何もかも投げ出したい気持になって、わりに呑気になった。空腹を覚えたので、見当り次第の家で一寸|昼食《ランチ》を取って、それから、全く知らない碁会所へはいり込んで、日当りの悪いがらんとした広間で、主人と手合せをやった。それにも倦いて、四時頃表へ出て、またぼんやり歩き出した。そしてふと彼は足を止めた。晩秋の淋しい光が、くっきりとした軒並の影で、斜め上から街路を蔽いつくしていた。彼は急いで下宿に帰ってみた。昨日の今日だから、或は沢子から手紙なり電話なり来てるかも知れないと、突然そんな気がしたのである。
下宿で彼を待ち受けていたのは、沢子からの便りではなくて片山からの電話だった。朝から二度ばかりかかってきたと女中が云った。
昌作は約束の四五日が今日でつきることを思い出した。然し彼にとっては、その四五日が如何に長い時日だったろう。彼は遠い昔のことをでも思い出すように、五日前の片山夫妻との約束を考えた。そして、九州へ行かないことにいつしか決定してる自分の心に気付いて、自ら喫驚した。自然に決定されたのだ、という気がした。
「何とでもその場合に応じて断ってやれ。」
そう捨鉢に心をきめて、彼は片山の家へ行ってみた。今から行けば丁度夕飯時分で、夫妻といつものように会食するということが一寸気にかかったけれど、構うものかとまた思い返した。
禎輔は不在で達子が一人だった。昌作は何故ともなく安堵の思いをした。達子は彼の姿を見て、待ちきれないでいたという様子を示した。
「佐伯さん、一体どうしたの? あんなに電話をかけたのに……。昨日も今日も五六回の上もかけたんですよ。するといつも居ない、居ないって、まるで鉄砲玉みたいに、何処へあなたが行ったか分らないんでしょう。私ほんとに気を揉んだのよ。変に自棄《やけ》にでもなって、何処かで酔いつぶれでもしてるのじゃないかと、そりゃあ心配したんですよ。……でも、宿酔のようでもないようね。一体どうしたんです? 電話をかけたらすぐに来て下さいって、あんなに頼んどいたのに……。」
黒目の小さな輝いた眼がなおちらちら光って、受口《うけぐち》の下唇をなお一層つき出してるその顔を、昌作は不思議そうに見守った。
「あなたも御存じじゃありませんか、私は此頃はわりに謹直になって、酒なんか余り飲みはしません。ただ、一寸用事が出来たものですから、その方に駈けずり廻っていたんです。」
「でも昨日はあんなに雨が降ったのに、その中を……?」
「雨くらい平気ですよ。」
「嘘仰言い、懶惰《ものぐさ》なあなたが!……それじゃ、やはりあのことで?」
昌作は自分の心が憂鬱になってくるのを覚えた。達子が沢子のことを云ってるのだとは分ったが、それを今話したくなかった。そして言葉を外らした。
「何か僕に急な御用でも出来たんですか。」
達子は眼を見張った。
「急な用ですって?……あなたはもう忘れたの?……四五日うちに返事をするって約束したじゃありませんか。あれから今日で幾日になると思って? 丁度五日目ですよ。まあ、馬鹿々々しい! 当のあなたが平気でいるのに、私達だけで心配して……。あなたくらい張合いのない人はないわ。片山はね、あなたがあんまり心をきめかねてるのを見て、何か岐度他に心配があるに違いないと云うんでしょう。私あなたの言葉もあったけれど、実はこうらしいって、あなたが話したあのことを打明けたんですよ。すると片山は長く考えていましたっけ。そして、そういうことなら、その方はお前が引受けて、まとまるものならまとめてやるがいい、何も九州へ行くことが是非必要というのじゃないから、他に東京で就職口を探してやろうと、そう云うんですよ。それから、一体佐伯君が恋してるっていうその女は、どういう種類の女かって、しつこく聞かれたものですから、私よく分らないけれど、お友達の妹さんかなんか、そんな風な、ハイカラな女学生風の令嬢らしいと、そう云ってしまったんですが、……どう? そうじゃなくって?」
「女学生風の令嬢だなんて、どうしてそんなことに……。」
「なりますとも。だってあなたは、その女が自分にとっては、光明だとか太陽だとか、そんなことをくり返し云ってたでしょう。あなたのように、玄人《くろうと》の女をよく知ってる人で……そうじゃありませんか、盛岡のことだって、またその後のことだって、考えてごらんなさいな……そういう人で、相手が芸者だの……珈琲店《カフェー》の女だのの場合に、それが私にとっては光明だの太陽だのと、そんなことを云うものですか。そんなことを云うからには、相手は若いハイカラな……令嬢というにきまってるわ。ね、当ったでしょう。……何もそんなに喫驚しなくったっていいわよ。」
然し昌作が呆気《あっけ》にとられたのは、彼女のいつもの早急な一人合点からとはいいながら、女学生なんかは大嫌いだと平素彼が云ってた言葉を忘れてしまって、どこかのハイカラな女学生風の令嬢だと勝手にきめてる、そのことに就いてだった。そしてそのことから、彼の気分は妙に沈んできて、ただ自分一人の心を守りたいという気になった。
「ねえ、もうこうなったら、仕方ないから、何もかも仰言いよ。……何処の何という人? 私出来るだけのことはしてあげるわ。」
「もう暫く何にも聞かないでおいて下さい。」と昌作は眼を伏せたまま云った。「私はまだ何にも云いたくないんです。あなたの仰言るような、そんな普通の恋じゃないんです。恋……といっていいかどうかも分りません。何だかこう……私自身が駄目になってしまいそうなんです。いろんなことがごたごたしていて、とんでもないことになりそうです。……私はもう少し考えてみます。考えさして下さい。私の心が……事情がはっきりしてきたら、すっかりお話します。是非お力をかりなければならなくなるかも知れません。けれど、今は、今の所は、自分一人だけのことにしておきたいんです。……馬鹿げた結果になるかも知れません。下らないつまらないこと、になるかも知れません。……まるで分らないんです。はっきりしてからお話します。」
「だって私、何だか心配で……。」
「私一人だけのことなんです。私一人だけのことが、どうしてそんなに……。」
「心配になりますとも!」と達子はふいに大きな声を出した。「私あなたのことなら、何でも気にかかるんだから、そう思っていらっしゃいよ。お前はどうしてそう佐伯君贔屓にするかって、片山もよく云うんですが、ええ、贔屓にしますとも! あなたのことなら何でもかでも気にかかって、一生懸命になってみせますよ。私あなたを弟のような気がしてるから……私にも片山にも弟なんかないから、あなたを弟と思ってるから、気を揉むのは当り前ですよ。」
昌作には、何で彼女が腹を立ててるのか訳が分らなかった。けれど何故となく、非常に済まないという気がした。彼女を怒らしたのを、非常に大きな罪のように感じた。彼は突然涙ぐみながら云った。
「済みません。僕が悪かったんです。」
「悪いとか悪くないとかいうことではありません……。」そう云っておいて達子は、長く――昌作が待ちきれなく思ったほど長く、黙っていた。そして静に云い続けた。「実際私は気を揉んだんですよ。四五日とあなたが約束したでしょう、そして一方に、そういう女の人があるでしょう、そしてそのまま音沙汰なしですもの、あなたがどんなにか苦しんでるだろうと思って、自分のことのように心配したのよ。それに、片山はああ云うし、そのことも早くあなたに伝えたいと思って、昨日から幾度電話をかけたでしょう。片山はまた片山で、何だかあなたに逢うことを非常に急いでいたんです。東京にいい口があるのかも知れませんよ。私には何とも云わないで、ただ話があると云うきりですが……。そうそう、あなたがいらしたら、会社の方へ電話をかけてくれって云っていました。一寸待っていらっしゃい、今かけてみますから。」
達子が立上って電話をかける間、昌作は変な気持でぼんやり待っていた。ハイカラな女学生風の令嬢だの、九州へは行かないでもよいだの、弟だの、禎輔から急な話があるだの、そんないろんなことが、まるで見当違いの世界へはいり込んだ感じを彼に起さした。そして、電話口から戻って来た達子の言葉は、更に意外な感じを彼に起さした。
「あの、あなたにすぐ武蔵亭へ来て貰いたいんですって。片山はあすこで二三人の人と会食することになっていて、今出かける所だと云っています。けれど、食事をするだけだから、そして
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