野ざらし
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)印半纏《しるしばんてん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一寸|昼食《ランチ》を

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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     一

「奇体な名前もあるもんですなあ……慾張った名前じゃありませんか。」
 電車が坂道のカーヴを通り過ぎて、車輪の軋り呻く響きが一寸静まった途端に、そういう言葉がはっきりと聞えた。両腕を胸に組んで寒そうに――実際夕方から急に冷々としてきた晩だった――肩をすぼめていた佐伯昌作は、取留めのない夢想の中からふと眼を挙げて見ると、印半纏《しるしばんてん》を着た老人の日焼した顔が、髭を剃り込んだ※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]をつき出し加減にして、彼の横から斜上《ななめうえ》の方を指し示していた。其処には、車掌と運転手と二つ並んだ名札の一つに、木和田五重五郎という名前が読まれた。
「私はこれで日本六十余州を歩き廻ったですが、こういう名前に出逢ったなあ初めてでさあ。ゴジューゴロー……何とか読み方があるんでしょうが……慾張った名前ですな。私は七十になりますがね……。」
 そのいやに固執した「慾張った」のすぐ後へ、七十という年齢《とし》が突拍子もなく飛出したので、昌作は知らず識らず笑顔をした。
「八十八という名前もあるじゃないか。」
「そいつあ世間にいくらもありまさあ、ヤソハチというんでね。」
「もっと上にゆくと、八百八というのがあるよ。」
「へえ? 八百八。」
「そら、伊予の松山の八百八狸《やおやだぬき》って有名な奴さ。」
「へえー、なるほど……。」
 日本六十余州を跨にかけたというその老人は、ただ口先だけで感心しながら、分ったのか分らないのか何れとも知れない顔付で、なお木和田五重五郎の名札を眺めていた。向う側にずらりと並んでいる無関心な男女の顔の二三に、薄《うっす》らとした微笑が浮んだ。
「何とか読み方がありましょうね。まさかゴジューゴローじゃあ……ちょいと通用しぬくかあねえかな。」と云って老人は首を振った。「何せえ慾張った名前ですな。」
 日焦けのした顔の皮膚がいやに厚ぼったくて、酔ってるのか素面《しらふ》なのか見当がつかなかった。昌作はぼんやりその顔を見つめた。と俄に、ぎいーとブレーキが利いて電車が止った。入口に先刻から素知らぬ風で向う向きに立っていた車掌が、大声に停留場の名を呼んだ。昌作は急な停車にのめりかけた腰をそのままに立ち上って、「失敬、」と口の中で云い捨てながら、慌てて電車を降りた。
 ――そうしたことが、いつもなら佐伯昌作の愉快な気分を唆る筈なのに、今は却って、寂寥と云おうか焦燥と云おうか、兎に角或る漠然たる憂鬱を齎したのである。九州の炭坑のことと橋本沢子のことが、同じ重さで天秤の両方にぶら下っていた。一寸した心の持ちようで、その何れかがぴんとはね飛ばされることは分っていた。それが恐しかった。自分の心の持ちようによってではなく、どうにもならない実際上の事柄によって、何れかに勝利を得させたかった。
 先ず九州の炭坑から……そして次に橋本沢子。
 そういう決心が、「木和田五重五郎」のことで妙に沈み込みがちになるのを、彼は強いて引き立てて、片山禎輔の家へ行ってみた。けれど、玄関から勝手馴れた茶の間へ通るうちに、重苦しい憂鬱がすっかり心を鎖してくるのを、彼ははっきり感じた。
「やあ、どうしたい?」
 彼の姿を見ると、片山禎輔はいつもの定り文句を機械的に口から出して、長火鉢に伏せていた少し酒気のある顔を挙げた。それから一寸眉根を曇らせた。昌作は黙って長火鉢の横手に坐ったが、禎輔が何か苛立っていること、先刻から苦しい思いに沈んでいたこと、宛も何かの中に落込んで出口を求めようとしているらしいこと、などを漠然と感じた。そしてそれが、不思議にもこの自分昌作に関係していることのような気がした。彼は次の言葉を待った。がその言葉は、彼の予期しない方面へ飛んでいった。
「君は富士の裾野を旅したことがあるかい?」
「ありません。」と昌作はぼんやり答えた。
「僕は富士の裾野を旅してる所を夢に見たよ。そして実際に行ってみたくなった。富士の……幾つだったかね……五湖、七湖、八湖……あの幾つかの湖水めぐりって奴ね、素敵だよ、君。鈴をつけた馬に乗って、尾花の野原をしゃんしゃんしゃんとやるんだ。……河口湖ってのがあるだろう。その湖畔のホテルに大層な美人が居てね、或る西洋人と……多分フランス人と、夢のような而も熱烈な恋に落ちたなんてロマンスもあるそうだよ。山上の湖水と……あまり山上でもないが、海岸に比ぶれば土地はよほど高いんだろう、まあ山上の湖水と云えば云えないこともないね。……ああ、そうそう、君は、山上の湖水なんかにどうして鰻《うなぎ》がいるか知ってるかい? 鰻って奴は、必ず海に卵を産んで、その卵から孵《かえ》ったのが、川を遡って内地……と云っちゃあ変だが、海に遠い山間の渓流へまでやって来るんだよ。それが出口も入口もない山上の湖水にまで、どうして来ると思う? 知らないだろう? そいつが面白いんだ。何とか云う学者の説に依ると、鰻の小さい奴が、まあ幼虫だね、それが水鳥の足にくっついて山上の湖水まで運ばれるんだそうだ。面白いじゃないか。」
 声に曇りはなかったけれど、その調子は変に空疎で気が籠っていなかった。と云って、人を馬鹿にしてるのでもないらしかった。昌作は何故ともなく気圧《けお》される気がして、ただじっと待っていた。禎輔の心が今そんな所にある筈ではなかった。九州の炭坑に行くか否かの昌作の返答こそ、今晩の問題であるべき筈だった。昌作はいつもの禎輔の調子からして、顔を見るなりすぐに問題へ触れられることと予期していた。所が何という他愛もない話だったろう! 或は高圧的に返答を引出すのを遠慮して、つまらないことに話を外らしながら、切り出されるのを待つつもりかも知れない、まさか、先日まであんなに急きこんでいたのを忘れたのではあるまい、などと昌作は考えてみた。けれど禎輔の話は、案外深みへはいっていった。
「いい天気じゃないか、この頃は。こんなだと実際に旅に出たくなるね。こないだ僕は久しぶりで郊外に出てみたよ。……然し、何と云ってももう秋の終りだね。いくら晴々とした日の光でも、云うに云われぬ悲愴な冷かさがある。
[#ここから3字下げ]
野ざらしを心に風のしむ身かな
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 この句は僕は口の中で繰返し繰返し歩いたものだ。」
 突然、殆んど瞬間的に、心をつき刺すような眼付をじろりとまともに受けたのを、昌作は感じた。喫驚して顔を挙げると、禎輔は押っ被せて尋ねかけた。
「君は鮑《あわび》のとろろ[#「とろろ」に傍点]ってものを知ってるかい?」
 昌作は知らないという顔色をした。
「君のお父さんや僕の親父などが、日本一の旨い料理だと云って話してきかしたものだ。僕はまだ食ったことはないがね。東海道の何とかいう辺鄙な駅にあるそうだ。取り立ての鮑をね、いきなり殻をはいで、岩のように堅くなった生身《いきみ》の肉を、大根研子《だいこおろし》でおろして、とろろ[#「とろろ」に傍点]にしたものだそうだ。……残酷じゃないか、君、生身を大根研子でおろされる時の感じは、どんなだろうね。それから、栄螺《さざえ》の壺焼だって……。」
 そうなると、もう一種の述懐ではなくて、何か他意ありそうな攻撃的な語調だった。昌作は返辞に迷って、相手の顔をぼんやり見守った。顎骨の弱った四角な顔、わりに小さな眼と低い頑丈な鼻、短く刈り込んだ口髯、顔全体が何処となく間のびしていながら、その間のびのしたなかに、強い意力と冷たい皮肉とを湛えていた。眉の外れに小さな黒子《ほくろ》があった。昌作の視線は次第にその黒子に集ってきた。その時、殆ど敵意に近い感情が禎輔の顔に漂った。何かどしりとした言葉が落ちかかって来そうなのを、昌作は感じた。
 けれど、丁度その時、奥の室から達子が出て来た。
「いらっしゃい。」
 下唇の心持ち厚い受口から出る、多少切口上めいた語尾のはっきりした言葉で、彼女は昌作を迎えておいて、其処に坐った。そのために室の中の空気が一変した。禎輔の顔は俄に無関心な表情になった。宛も、覗き出しかけた彼の心が再び奥深く引込んだかのようだった。妻の前に於ける彼のそういう態度の変化が、一寸昌作を驚かした。元来禎輔は、深い問題を論じ合ってる熱心な際にも、妻の達子が其処に出ると俄にくつろいだ態度を取る癖があった。妻をいたわるのか或は妻の手前を繕ろうのか、または、妻を軽蔑してか或は恐れてか、何れともそれは分らないが、兎に角俄に、余裕のある何喰わぬ態度をするのだった。その無意識的な癖を昌作は嫌だとは思わなかった。然しその晩の禎輔の態度は、単なるそういう癖ばかりではないらしかった。何かしら意識的な努力の跡が仄見えた。昌作は一寸心を打たれざるを得なかった。それと共に、今迄禎輔と対座中、自分が殆んど一言も口を利かなかったということが、ふいに頭に浮んだ。禎輔ばかり口を利いて昌作が無言でいるというようなことは、昌作が少し使いすぎて余分な金を貰いに来るような時にでも――(そんな時禎輔は別に小言も云わずに金を出してやった)――今迄に余りないことだった。昌作は変に落着かない心地になった。然し達子は彼に長く猶予を与えなかった。いつもの率直さで尋ねかけた。
「佐伯さん、どうしたの、九州へ行くことにきめて? それとも行かないの?」
 昌作は初めその問題を予期していたものの、一度禎輔からあらぬ方へ心を引張られた後なので、咄嗟に思うことが云えなかった。
「私いろいろ考えてみたけれど、やはり行った方がよくはなくって?」と達子は構わず云い進んだ。「炭坑と云えば一寸つらいようだけれど、何も坑《あな》の中へはいって仕事をするのじゃなし、普通の事務員だと云うから、却ってそんな所で働いた方が面白かないでしょうか。月給だって初めから百五十円貰えば、云い分ないでしょう。そんなよい条件はなかなか探したってあるものですか。坑主の時枝さんが、昔片山のお父さんに世話になったとかで、片山が無理に頼んだ上のことですから、きっと出来るだけの……破格の待遇に違いないわよ。手紙にもそう書いてあったわ、ねえ、あなた。」彼女は禎輔の方をちらと見やって、また昌作の方へ向き返った。「そりゃあ東京を離れるのは嫌でしょうけれど、一時九州の炭坑なんて思いもよらない処へ行ってみるのも、却って生活を新たにするのによいかも知れないわ。あなたはいつも、生活を新たにするって、口癖のように云ってたじゃないの。」
「ええ、そういう気持は常にありますが……。」と昌作は漸く口を開いた。「兎に角、生活を新たにするには、それだけの……軸が、心棒が必要なんです。それを探し廻ってるんです。所が生活を立て直す心棒なんてものは……。」
「冗談じゃないわよ。」と達子は彼を遮った。「今はそんな議論の場合じゃないわ。九州へ行くか行かないかの問題じゃありませんか。行くのが却ってその心棒とかになりはしないかと、私は云っただけよ。……でどうするの、行って? それとも行かないの?」
「そうですね……どうしたもんでしょう?」
「あら、あなたはまだ決めていないのね。でも今晩、行くか行かないかの返事をする約束じゃなかったの?」
「そのつもりでしたが、もっと詳しく聞いてからでないと……。」
「聞くって、どんなことを? もうちゃんと分ってるじゃありませんか。」
 勿論大概のことは分っていた。片山の知人の時枝という坑主が、片山の頼みで、佐伯昌作を事務員に使ってみようということになり、而も百五十円という破格の月給をくれて、なお本人の手腕によっては追々引立ててやるとのことだった。その炭坑は北九州でも可なり大きい方のもので、他に事務員も沢山居るから
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