、初めは見習旁々遊んでいてもよいという、寛大すぎる条件までついていた。然しそういう余りに結構な事柄こそ、却って昌作を躊躇せしめたのである。
「然し私には、余りよい条件だから却って、変な気がするんです。」
「それは炭坑のことですもの、」と達子は訳なく云ってのけた、「百五十円やそこいら出して一人の人を遊ばしといたって、何でもないんでしょう。それに、時枝さんの方では、片山からの頼みだから、片山のお父さんへの恩返しって気持もあるのでしょうから。」
「一体、九州の直方《のうがた》って、どんな土地でしょう?」
「そりゃあ君、山があって、そして朱欒《ざぼん》という大きな蜜柑が出来る処さ。」と突然禎輔は冗談のように云った。「僕も一度あの朱欒のなってる所を見たい気がするね。いつか時枝君が送ってくれたのなんか素敵だったよ。綿を堅めたような真白な厚い皮の中から、薄紫の実が飛出してくるんだからね。たしか君も食べたろう?」
「ええ、あいつは旨かったですね。」
「僕はね、あの種を少し庭の隅に蒔いたものさ。所が折角芽を出すと、女中が草と一緒に引っこ抜いちまった。」
「そんなことはどうだっていいじゃありませんか。」と達子は急に苛立ってきた。「行くとか行かないとか、一応の返事を時枝さんへ出しておかなければならないと、あなたはあんなに気を揉んでいらしたじゃありませんか。向うで好意から取計って下さるのを、余り長く放っておいては、ほんとに済みませんわ。……佐伯さんだってあんまり我儘よ。今晩どちらかの返事をすると約束しておいて、まだ元のままのあやふやな気持なんですもの。そんなことじゃ、いつになってもきまりっこないわよ。私いろいろ考えた上で、屹度あなたが行らっしゃるものだと思ったものだから、もうお餞別の品まで考えといたのよ。繻絆[#「繻絆」は底本では「絆繻」]や襯衣や足袋や……そんなものまで、こうしてああしてと考えといたのよ。それなのに……。私もう知らないから、勝手になさるがいいわ。」
「そんなことを云ったって、」と禎輔が引取って云った、「佐伯君にもいろいろ都合があるだろうし、そう急に決心がつくものかね。」
 昌作は、今度は自分が何とか云わなければならない場合だと感じたが、一寸言葉が見出せなかった。彼の心には再び、何とも知れぬ惑わしいものが被さってきた。実際先達てから、行くか否かの返事だけなりとも時枝へ出しておかなければならないと、しきりに昌作へ決心を強いたのは、そして、その晩までに返事をすると昌作に約束さしたのは、禎輔自身だった。所が今急き込んでるのは達子だけで、禎輔自身はどうでもよいという投げやりの態度を取ってるのだった。その投げやりの態度の底に何かがあるのを、昌作は不安に感じた。殊にこれまで、また今後とも恐らく、自分の親戚として且つ保護者として、そして寛大な真面目な人格者として、禎輔を尊敬していただけに、昌作は猶更それを不安に感じた。
「私は今一寸気持に引掛ってることがありますから、」と昌作は突然云った、「それが片付くまで……もう四五日、待って頂けませんでしょうか。」
「ああゆっくり考えるがいいよ。今じゃなんでもないが、九州へ行くと云えば昔では……。」
 何故かそこで禎輔がぷつりと言葉を途切らした。然し昌作はその皮肉な語気からして、流刑人の行く処だというような意味合を感じた。そして慌てて弁解し初めた。
「いえ、九州だからどうのこうのと云うんじゃありません。ただ、自分の気持に引掛っていることがありますので、それを……。」
「まあどうでもいいさ。」と禎輔は上から押被せた。「誰にでもいろんな引掛りはあるものだよ。ゆっくり考え給い。時枝君の方へはいいように云っとくから。」
 そして彼は一変して急に真面目な眼色で、昌作の顔をじっと見つめた。昌作は眼を外らして次の言葉を待った。然し禎輔は何とも云わなかった。ふいに立上って柱時計を眺めた。
「もう八時だ。僕は一寸急な用があるから出掛けるよ。ゆっくりしていき給い。じきに帰るから。」
「何処へいらっしゃるの?」と達子が驚いたように彼を見上げた。
「会社の用で上田君に逢うことになってるのを忘れていた。なに一寸逢いさえすればいいんだ。」
 そして彼は羽織だけを着換えて、無雑作に出かけていった。玄関で一瞬間立止って、何やら考えてるらしかった。がそのまま黙って表へ出た。
 昌作は達子の後について茶の間へ戻ったが、何だか急に薄ら寒い気持になった。その彼の顔に、達子はじっと眼を据えながら云った。
「どうしたの、ぼんやりして? そして変な顔をして?」
「片山さんは私に怒ってらっしゃるんじゃないでしょうか?」
「なぜ?」
 達子は眼を丸くした。
「何だかいつもと様子が違ってるようじゃありませんか。」
「どうして?」
 達子の丸い眼には率直な澄んだ輝きがあった。
「そうでなけりゃ……、」と昌作は漸く落着いて云った、「……喧嘩でもなすったんですか。」
「まあ!」達子はもう我慢出来ないという風に早口で云い進んだ。「あなたの方が今日はどうかしてるのよ。いやにひねくれて、夫婦喧嘩をしたかなんて、そんなことを聞く人があるものですか。そりゃあ片山だって、あなたが余りあやふやだから、少しは厭気がさすでしょうよ。けれど怒ってなんかいませんわ。また喧嘩なんかもしやしませんわ。」
「いえ私はそんな……。云い方が悪かったら御免下さい。ただ何だか片山さんの様子がいつもと違ってるようだったものですから……。」
「誰にだって心配ごとがある時もあるものよ。」と達子は心を和らげて云った。「会社の方に何かごたごたがあって、それに頭を使いすぎなすってるらしいのよ。夜中に眼を覚したり、朝早く起き上ったりなさることが、時々あるものですから、私も少し心配になって聞いてみると、いくらか神経衰弱らしいと云って、自分を憐れむように微笑んでいなさるんでしょう。自分で微笑みを洩らしてる間は、神経衰弱なんて大したことじゃないわよ……。けれど、兎に角そういう際ですから、あなたも余り気をもませないように、早くどうにか片をつけたらいいじゃありませんか。」
 達子が自分を急き立ててるのはその故《せい》だなと、昌作はふと考えついた。けれど、禎輔のそうした様子の方へ、彼の心は惹かされた。禎輔が夜中に眼を覚したり、ふいに朝早く起き上ったりすることが、会社の何かの事件のためではなくて、他に深い原因があるらしいのを、直覚的に彼は感じた。そして我知らず尋ねてみた。
「その他に片山さんの様子に変ったことはありませんか。」
「まあ!……全くあなたの方が今日は変よ。一寸何か云えばすぐ片山を狂人扱いにして!」
 達子からじっと見られてる顔を、昌作は伏せてしまった。心が苦しくなってきた。黙っておれなかった。
「でもあなたは、片山さんがそんなに苦しんでいらっしゃるのに、平気で落着いていられるんですか。」
「あなたはなお変よ!……私達のことをあなたはよく知ってるじゃありませんか。片山はどんな苦しいことがあっても、その苦しみが過ぎ去るまでは決して人に云わない性質なんでしょう。私初めはそれを嫌だと思ったけれど、馴れてみると、その方がいいようですわ。なぜって、考えてもごらんなさい、片山がつまらないことに苦しんでる時――苦しみなんて大抵つまらないことが多いものよ――私まで一緒に苦しんでごらんなさい、家の中はどうなるでしょう? 二人で陰気な顔ばかりつき合してたら、堪らないじゃありませんか。苦しみを二重にするばかりですわ。片山も私もそのことをよく知っているんです。それで片山は、自分に苦しいことがあっても、私には何とも云いませんし、私はまた、出来るだけ晴々とした顔をして、片山の苦しみを和らげてやるんですのよ。でも万一の場合になったら、片山の苦しみが余り大きくなりすぎたら、私にだって、その苦しみの半分を背負うだけの覚悟は、ちゃんとついていますよ。片山もそれはよく知っています。そして私達は互に信頼してるわけですよ。」
 そういう二人の生活の調子を、昌作は知らないではなかった。然しそれは、今彼の心に変な暗い影を投じてるものとは、全く無関係な事柄だった。そして彼は、その暗い影について、その影を投じてくる禎輔のことについて、どう云い現わしてよいか、もどかしい思いのうちに、沈黙していた。達子も暫く黙っていたが、やがてまた彼を当の問題に引出しかかった。
「ねえ佐伯さん、もうあなたもいい加減真面目になって、自分で生活を立てるようになさいな。それには、此度のことは丁度よい機会じゃありませんか。こんなよい就職口は、また探そうたってありはしないわよ。それは九州なんかに行くのは嫌でしょうけれど、それかって、東京に居てどうするつもりなの。私こんなことを云うのは嫌だけれど、あなたのお母さんが亡くなられる時、片山のお父さんに預けておかれた財産だって、もうとっくに無くなってるじゃないの。片山はああいう人ですから、あなたの月々の費用なんか黙って出していますが、そして私が、もう佐伯さんも自分で働いて食べるように意見してあげた方がいいって云うと、佐伯君も人に意見される年頃でもあるまいし、何か考えがあるんだろうなどと、却ってあなたを庇ってはいますが、それをいいことにして、いつまでものらくらしていてはあなたもあんまり冥利につきはしなくって? 今度は否でも応でも、あなたは暫く九州に行って辛抱なさるが本当だと、私は心から信じきってるのよ。片山があんなに骨折ってくれたのをそのままにしておいて、一体あなたはどうするつもりなの?」
「いえ私は、九州行きを断るつもりじゃないんです。ただ……どうして片山さんが私を九州なんかに……。」
 昌作はしまいまで云いきれなかった。達子の眼に突然厳しい光りが現われたのだった。そして昌作は、自分の云おうとしてることが相手にどう響くかを感じた。達子が腹を立てるのは当然だった。それは全く忘恩の言葉だった。然し彼に云わせると、これまであんなに寛大と温情とを以て自分を通してくれた禎輔が、遠い九州の炭坑なんかに自分を追いやろうとすることこそ、最も不可解なのであった。どうせ就職口を探してくれるのなら、東京もしくは何処かに奔走してくれそうなものだった。九州の炭坑とは、全く夢にも思いがけないことだった。それとも、そういう処でなければ昌作の生活が真面目になりはしないというのなら……それまでのことだけれど。然しそれならそれと、なぜ禎輔は明かに云ってくれなかったのだろう。信念も方向もないぐうたらな生活を送ってる昌作にとっては、九州の炭坑と云えば、全く流刑に等しいと感ぜられるのだった。そのことを、明敏な禎輔が見落す筈はなかった。「追っ払おうとしてるのだ!」としか昌作には思われなかった。そしてそれが、今迄凡てを許してくれていた禎輔であるだけに、昌作には不可解に思えるのだった。本当の心を聞きたい、その上で忍ぶべきなら忍んで九州へ行きたい、というのが彼の希望の凡てだった。
 達子はふいに叫んだ。
「あなたはそんなに心まで曲ったんですか!」
 率直な達子に対しては、昌作は何とも返辞のしようがなかった。
「私あなたをそんな人だとは思わなかった。」と達子は云い続けた。「私達があなたのためを思ってやってることを、あなたは、厄介払いをする気で九州なんかへ追いやるのだと思ってるのでしょう。いえそうですわ。あなたには人の好意なんてものは分らないんです。……これでも私達は、あなたの唯一の味方と思っていたんですよ。あなたが珈琲《カフェー》に入りびたったり、道楽をしたり、ぐずぐず日を送ったりしているのを、そして牛込の伯父さんにまで見放されたのを……それを私達は、始終好意の眼で見てきてあげたつもりですわ。そしてあなたが自分で云ってたように、いつかはあなたの生活が立て直るに違いないと、ほんとに信じていたんですわ。それで片山は東京で方々就職口を内々尋ねて……働くことによってしか生活はよくならない、佐伯君にとっては仕事を見出すことが第一だ、と片山は云ってるのです。私もそう思っています。で、東京にいい口がないの
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