で、少し遠いけれど、九州の時枝さんに頼んで上げたのではありませんか。それをあなたは、考えるに事を欠いて、追っ払うなんて!……。」
昌作は黙って頭を垂れていた。達子の叱責が落ちかかってくるに随って、眼の中が熱くなってきた。達子の言葉が途切れてから、暫くその続きを待った後で、少し声を震わせながら云った。
「私が悪かったんです。私は心からあなた方二人に感謝しています。けれどもただ、片山さんが何もかも、心の底まで、すっかりのことを云って下さらないような気がしたんです。それは私の僻みだったんでしょう。……もう何にも申しません。行きましょう、九州の炭坑へ。そしてうんと働いてみます。全く私には、仕事を見出すことが第一の……。」
その時、殆んど突然に、いつも遠くを見つめてるような橋本沢子の眼が、彼の頭にぽかりと浮んだ。瞬間に彼は、或る大きなものに抱きすくめられたようにも、または行手を塞がれたようにも感じた。先が云い続けられなかった。
彼の表情の変化に、達子は眼を見張った。
「佐伯さん、あなた何か……?」と彼女はやがて云った。
「ええあるんです。」と昌作は吐き出すようにして云い出した。
「私を引き留めてるものがあるんです。実は私は何にも云わないで、すぐにも承諾して九州へ行きたかったんです。仰言る通りどの点から考えても、私は九州へ行った方がいいんです。第一自分で自分に倦き倦きしています。今迄のように目的のない生活は、いくら私にでも、そう長く続けられるものではありません。初め片山さんからそのお話を聞きました時、私は何だか新らしい生活が自分の前途に開けて来そうな気がしました。所が行ってみようと思った瞬間に、急に堪らない淋しさに襲われたのです。自分でどうにも出来ない淋しさなんです。その時まで私は自分でも知らずにいましたが、私の心は或るものに囚えられていました。その或るものが、私にとっては太陽の光でした。いえ、前から……前からじゃありません。その時からです。東京を離れて九州へ行こうと思った瞬間からです。そして自分で自分に口実を拵えるために、片山さんの気持に、あなた方の気持に、いろんな疑いを挟んでみたのです。そうです、私は行くのが本当だと知っていながら、行かずに済むような口実が欲しかったのです。いやそればかりじゃありません。九州というのが余り思いがけない土地だったものですから、淋しさの余りに、或るものに縋りついたのかも知れません。九州と聞いて、実際島流しにでも逢ったような気がして、闇の中へでもはいって行くような気がして、そのために光が欲しくなったのかも知れません。いえ、それよりも寧ろ、前からその光を受けていたのが、突然はっきりしてきたのかも知れません。……と云うよりやはり……。」
云いかけて彼は急に口を噤んで、暫く室の隅を見つめた。それから一変して、半ば皮肉な半ば自嘲的な調子になった。
「もう止しましょう。そんな詮議立てをしても無益ですから。どっちだって同じことです。兎に角私は今、率直に云えば、或る女に心を惹かされているんです。その気持の上の引掛りが取れるまで、もう四五日、返事を待って下さいませんか。」
「じゃあ、あなたはやっぱり……。」と達子は叫んだ。
が昌作は云ってしまってから、非常に不快な気持になった。何故だか自分にも分らなかった。もう何にも云いたくなかった。
「それならそうと、初めから仰言ればいいのに。」と達子は云い続けていた。「私も或はそんなことではないかと薄々感じてはいたけれど、あなたがあんまり白を切ってるものだから、ついいじめてもみたくなったのよ。ごらんなさいな、あなたは隠そうたって隠しきれるものじゃないわ。……で、どんな人なの、その女っていうのは? ねえ、すっかり云ってごらんなさいな。出来ることなら何とかしてあげますから。片山に云って悪ければ、云いはしませんから。え、一体どういう風になってるの?」
昌作は彼女の言葉をよく聞いていなかった。何だか自分自身を軽蔑したい、というだけではまだ足りない気持だった。
二人は可なり長い間黙っていた。そして昌作は突然云った。
「いずれあなたには詳しくお話をする時が岐度来るような気がします。もう四五日待って下さい。何もかもそれまでに片をつけますから。」
そして彼はぶっきら棒に立上った。まだ何か云いたそうにしている達子から無理に身をもぎ離すようにして、表へ出て行った。玄関の薄暗い所で、声を低めて云った。
「片山さんには暫く内密《ないしょ》にしておいて下さいませんか。」
「ええ、その方がよければ云わないでおきましょう。……あの、佐伯さん、私がもし電話でお呼びしたらすぐに来て下さいよ、屹度ね!」
昌作は何故ともなくほろりと涙を落したのだった。そして達子の最後の言葉は彼の耳に残らなかった。
二
霧の深い晩だった。佐伯昌作は何かに追い立てられるように、柳容堂の二階の喫茶店へ急いだ。
運命と云ったようなものがじりじりと迫ってくるのを、彼は感じたのだった。そして、達子へ対して四五日の後にと誓ったのは、寧ろ自ら自分の心へ対してだった。九州の炭坑へ行くべきなのが本当であると、彼ははっきり知っていた。片山禎輔の様子に暗い疑惑が生じたにもせよ、そんなことを考慮に入れるのは、自分が余りに卑怯なからだと思いたかった。何にも云わないで、黙って忍んで行こう!……然しその後から、橋本沢子のことが同じ強さで浮んできた。九州へ行くという意志が強くなればなるほど、同じ程度に沢子へ対する愛着が強くなっていった。九州へなんか行かないでもよいという気になれば、沢子なんかどうでもよいという男になった。昌作はそういう自分の心を、どうしていいか分らなかった。九州の炭坑のことを思うと、真暗な気がした。沢子のことを思うと、輝やかしい気がした。そういう闇の暗さと光の明るさとが、同時に、全く正比例して強くなったり弱くなったりした。そして、沢子を連れて九州へ行くことは、到底望み得られなかった。
「兎も角も俺は決心をきめなけりゃならないのだ!」
昌作は殆んど絶望的にそう呟いて、清楚とも云えるほど上品な趣味で化粧品類が並べてある店の方をちらりと見やりながら、柳容堂の薄暗い階段を上って行った。明るいわりに心持ち狭い二階の室に出ると、彼は俄に眼を伏せて、壁際の小さな円卓に行って坐った。
薄汚れのした古いペーパーの洋酒瓶が両側にずらりと並んで、真中に大きな鏡のついてるスタンドの向うから、きりっと襟を合した沢子の姿が現われた。彼女は昌作の方をじっと見定めて、真面目な顔の表情を少しもくずさずに、眼で一寸会釈をしながら、彼の方へ近寄って来た。彼は眩《まぶ》しいような気持になった。瞬間に、そうした余りに初心《うぶ》な自分の心を、自ら恥しくまた意外にも感じて、右手で額の毛を撫で上げながら、恐ろしく口早に云った。
「菓子と珈琲とコニャックとをくれ給い。」
それから袂を探って煙草に火をつけながら、卓子の上に顔を伏せた。
その時彼は初めて、何故に此処に来たかを自ら惑った。九州へ行くか行かないかについて、心に喰い込んでる彼女[#「彼女」に傍点]に片をつける、それが彼の求めてる重な事柄だった。それには、暫く沢子から離れて自分の内心を見守るのが当然の方法なのを、却って反対に、沢子の許へ来てしまったのである。沢子の許へ来て、何の片をつけるというのか? 昌作は九州行きを考えてみた時から初めて、沢子の存在が自分にとって光であるように感じただけで、外面的に云えば、二人は屡々顔を合して親しい心持になっているという以外に、何等の交渉もない間柄だったのである。二人の心がぴたりと触れ合う話を交えたこともあるけれど、それもただ友人という位の範囲を出でなかった。
「俺は今になって、初めて恋をでもするように、女性というものを知らない初心者ででもあるように、沢子に恋をしたのであろうか?」
或はそうかも知れなかった。然し、いくら自分を卑下して考えても、単にそればかりではなかった。では一体何か?……その雲を掴むような疑問をくり返してるうちに、昌作は深い寂寥の中へ落ち込んだ。
珈琲と菓子とを持って来、次にコニャックの杯を持って来た沢子が、彼の上から囁くように云った。
「あとで一寸お話したいことがあるから、待ってて頂戴。」
昌作が顔を挙げて、その意味を読み取ろうとすると、彼女は澄ました顔で、さっさとスタンドの向うへ引込んでしまった。その入口の所に、も一人の女中――顔に雀斑《そばかす》のある年増の春子――が、壁に半身を寄せかけて佇みながら、室の中をぼんやり眺めていた。昌作は慌てて眼を外らして、やはり室の中を眺めた。
曇り硝子に漉される電気の先がいやにだだ白くて、白い卓子の並んだ室の中は薄ら寒かった。往来に面した窓際に、若い五六人の一団の客がいた。昌作が見るともなく眼をやると、その中に見覚えのある顔が一つあった。それがしきりにこちらを見てるので、昌作はまた卓子の上に屈み込んで、珈琲とコニャックとをちゃんぽんに嘗めるように啜った。彼等は美術のことを論じ合っていた。何かの展覧会に関することらしかった。然し昌作は別に興味も覚えないで、自分一人の思いに沈み込みながら、途切れ途切れに聞えてくる単語を、上の空に聞き流していた。そのうちに、彼は我知らず耳を欹《そばだ》てた。彼等の声が俄に低くなったのにふと気を引かれて、隠れたる天才だのモデルだの好悪の群像だのという語を、ぼんやり聞いてるうちに、宮原という名前が耳に留ったのである。その時表を電車が通って、次の言葉は聞えなかったが、電車の響きが静まると、わりにはっきりと、想像も手伝って、彼等の会話が聞き取られた。
A――「好きな部類にはいるんだと、僕は思うね。」
B――「僕は嫌いな方にはいるんだと思うよ。」
C――「なあに、両方さ。右のプロフィルが好きな方面、左のプロフィルが嫌いな方面、なんてことになるに違いないよ。惚れてはいるが意地もあるってわけさ。」
M――「僕には一体あの事件がよく分らないよ。細君を追ん出してまでおいて、どうしてS子と一緒にならなかったんだろう?」
C――「そりゃあ君、恋のいきさつなんか凡人には解せないよ。」
N――「兎に角一風変った女だね。好悪の群像なんてでたらめだろうが、絵を習ってるというのは本当なのか。」
C――「本当さ。松本氏の画塾ということまでつきとめたんだ。好悪の群像だって今に実現するよ。何しろこんな所にいて、そして客に対して、好悪の態度をあんなに露骨に示すんだからね。画家になりきったら、好悪の群像くらい訳はないさ。君達の顔だってその中に入れられるかも知れないぜ。」
A――「そんなら、君子危きに近寄らずだ。もう行こうよ。」
C――「体のいいことを云って、実はもう一つの危きに近寄りたいんだろう。」
それから話は外の方に外れて、彼等の間だけに通用する符牒の多い事柄にはいり込んだので、その声はまた高くなったが、昌作にはよく分らなかった。けれど昌作にとってはそんなことはどうでも構わなかった。彼の頭は聞き取った事柄の方にばかり向いていた。沢子が絵を習ってるということを、彼は嘗て夢にも知らなかった。それかと云って、宮原の話やなんかを考え合せると、それは確かに沢子のことに違いなかった。沢子が絵を習ってるのを今迄自分に隠していたということが、重く彼の胸にのしかかってきた。固より、沢子の以前の生活やその智力などを考えてみれば、彼女がこの喫茶店の女中になったのには何か他に理由があるに違いないとは、昌作にも推察されないではなかった。然し彼がそのことに話を向けようとすると、彼女はいつも言葉を外らしてしまった。しまいには彼も諦めて、彼女から云い出すまで待つことにしていた。所が今偶然、彼女が絵を習ってるのを知ったのである。それが、彼女自身の口からではなくて、偶然によってであるのが、昌作には不満だった。その不満から、徐々に、絶望に似た憂苦がにじみ出してきた。
向うの連中が、春子に勘定を払って出て行った後、昌作
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