と恋人とを一緒にしたような気持で……。え、君はなぜ泣くんだい?」
昌作は禎輔の言葉をよく聞いていなかった。ただ何故ともなく胸が迫って来て、いつしか眼から涙がこぼれ落ちたのだった。彼は禎輔に注意されて初めて我に返ったかのように、そして自分自身を恥じるかのように、葡萄酒の杯の方へ手を差伸ばした。
禎輔は彼の様子を暫く見守っていたが、やがてふいに立上って室の中を歩きだした。そして卓子のまわりを一巡してきてから、また元の所へ腰掛けて、何か嫌なものでも吐き出すように、口早に話し初めた。
「僕は君に要点だけを一息に云ってしまうことにしよう。判断は君に任せるよ。……君が盛岡であんなことになって、東京に帰ってきてからものらくらしてるのを見て、僕達は影で可なり心配したものなんだ。なぜって、僕達は間接に君の保護者みたいな地位に立ってるのだからね。そして君の心を察して、初めは何とも云わないで放っておいたが、もうかれこれ二年にもなるのに、君がまだぼんやりしてるものだから、達子が真先に気を揉み初めたのだ。そして君自身も、今に生活をよくしてみせると、口でも云い、心でも願っていたろう。それに僕は、君に一番いけないのは仕事がないからだと思ったのだ。何も僕は、君に月々補助してる僅かな金銭なんかを、かれこれ云うのではない。このことは君も分ってくれるね。……そこで、僕は君のために東京で就職口を探してみたが、僕の会社の社長にも相談してみたが、どうも思うような地位がないものだから、何の気もなく……全く何の気もなくなんだ、九州の時枝君のことを思いついて、手紙で聞き合してみると、案外いい返事なんだろう。で僕もつい乗気になって、本式に交渉して、あれだけの有利な条件を得たわけなんだ。時枝君の方では、古い話だが、僕の父の世話になったことがあって、その恩返しって心もあるに違いない。所が、この九州の炭坑ということが……偶然そんなことになったのだが、その偶然がいけなかった。九州の炭坑と聞いて、君が逡巡してるうちに、そして僕から云わすれば、九州へ行くくらい何でもないし、非常に有利な条件ではあるしするから、君にいろいろ説き勧めてるうちに、ふと僕は自分の気持に疑惑を持ち初めた。君を九州へ追い払おうとしてるのじゃないかしらと……。」
禎輔は葡萄酒の杯を手に取りながら、暫く考えていた。
「僕自身にも何だかはっきり分らないが……前後ごたごたしていて、要領よく話せないが……要するにこうなんだ。その時になって、頭の隅から、君のお母さんと僕とのことが、ふいに飛び出して来たのさ。そして僕は、一寸自分でも恥かしくて云いづらいが、達子と君とのことを……疑ったのでは決してないが、君のお母さんと僕とのことが一方にあるものだから、今に僕が死んだら、達子と君とが同じようなことになりはすまいかと、いや、僕が生きてるうちにも、そんなことになりはすまいかと、現になりかかってるのではあるまいかと、馬鹿々々しく気になり出したものさ。君は丁度、僕が君のお母さんに馴れ親しんでたように、達子に馴れ親しんでいるからね。」
昌作は驚いて飛び上った。それを禎輔は制して、また云い続けた。
「まあ終りまで黙って開き給え。……そこで、一口に云えば、僕は君と達子との間を嫉妬したのさ。僕が嫉妬をするなんて、柄《がら》にもないと君は思うだろう。全く柄にもないことなんだ。然しその時僕の頭の中では、僕と君のお母さんとのことと、君と達子とのこととが、ごっちゃになってしまっていた。それに、君が九州行きをいやに逡巡してるものだから、或は達子に心を寄せてるからではあるまいかと、変に気を廻してしまった。それを肯定する考えと、それを否定する考えとが、僕の頭の中では争ったものだ。そしてまた一方には、僕は嫉妬の余り君を九州へ追い払おうとしてるのだと、自分で思い込んでしまったのさ。そしてまた、それを自分で責め立てたのだ。君を追い払わなければいけないという考えと、そんなことをしてはいけないという考えとが、頭の中で争ったものだ。こう別々に云ってしまえば何でもないが、そんないろんなことが、それにまた他のことも加わって、一緒にごった返して、僕の頭はめちゃめちゃになってしまった。全く神経衰弱だね。神経衰弱にでもならなければ、こんなことを考えやしない。……それでも僕は、自分を取失いはしなかった。そして達子のあの率直な快活さも、僕には力となった。それからいろんなことがあって、結局僕は達子を使って君の心を探偵してみたのだ。そして、片山さんはなぜ私を九州なんかへ追いやるのだろうかと、君が達子へ聞いたことと、君が他に若い女を愛してるということとが、僕にとっては光明だった。なぜって、君がもし達子へ心を寄せてるのなら、自分で気が咎めて、達子へ向ってそんなことを聞けるものではない。若い女の方のことは、云わないでも分りきった話だ。……それから僕は、次第に考えを変えてきて、君を九州なんかへやらない方がよいと思ったのだ。君を九州へやることは、君自身を苦しめるばかりでなく、僕をも苦しめることになるからね。然し、是非とも君が行きたいと云うなら別だが……君は行きたくはないんだろう?」
「行かないつもりでしたが、然し……。」と昌作は口籠った。
「然し[#「然し」に傍点]だけ余計だよ。そんなことは打棄《うっちゃ》ってしまうさ。……がまあ、今晩はゆっくり話をしよう。そして、このことは達子には内密《ないしょ》にしといてくれ給い。彼女《あれ》の心を苦しめたくないからね。」そして禎輔は何かを恐れるもののように室の中を見廻した。「もっと飲もうじゃないか。どしどしやり給い。」
然し昌作は、云われるまでもなく、先程からしきりに杯を手にしていた。禎輔の話をきいてるうちに、頭の中が変にこんぐらかってきて、判断力を失いそうな気がしたのである。
「人間の頭って可笑しなものだ。」と禎輔は半は皮肉な半ば苛立った調子で云い出した。「思いもかけない時に、思いもかけない古いことが飛び出してきて、それがしつこく絡みつくんだからね。然し考えてみると、僕は昔の自分の罪から罰せられたようなものさ。そうだ、その罪の罰なんだ。そして、君がお母さんの子だということがいけなかったのだ。全く別の男なら、いくら達子と親しくしようと、僕はあんな馬鹿げた考えを起しはしない。然し君は、君のお母さんの子だ。それがいけないのだ。」
昌作はその言葉を胸の真中に受けた。今にも何か恐ろしい気持になりそうだった。然し彼はそれをじっと抑えて、唇を噛みしめた。すると、禎輔は突然荒々しい声で云った。
「君は怒らないのか。……怒ってみ給い。怒るのが当然だ。」
昌作は身を震わした。侮辱……というだけでは足りない或る大きな打撃を、禎輔の全体から受けたのである。そして、自分が今にも何を仕出かすか分らない恐れを感じた。彼はじっと、煖炉の瓦斯の火に眼を落して煙草を手にしてる禎輔の顔を、次にその眉の外れの小さな黒子《ほくろ》を見つめた。その時、禎輔は吸いさしの煙草を床に放りつけて、眼を挙げた。その眼は一杯涙ぐんでいた。
「佐伯君、」と禎輔は云った、「僕が何で君にこんな話をしたか、その訳を云おう。普通なら、この話は僕達三人に悪い影響を与えそうだ。三人の間に或る気まずい垣根を拵えそうだ。然しそんなことは、僕と君とさえしっかりしていれば、何でもないことだ。或は却っていい結果になるかも知れない。達子は少しも知らないんだからね。それで僕は、思い切って君に打明けることにしたのだ。自分の心をさっぱりさしたい気もあった。然し実は、人間の心に、……魂に、過去のことが思いもかけない時にどんな影響を与えてくるか、それを君に知らしたかったのだ。あの盛岡の女の事件みたいな、単なる肉体上の事柄じゃない。もっと深い心の上の問題だ。それを僕は君のために、あの……。」
禎輔は云いかけたまま、変に考え込んでその先を続けなかった。昌作は或る不安な予感に慴えて、立上って歩き出した。禎輔の調子が低く落着いてるだけに、それが猶更不安だった。その上昌作は、もう可なり酔っていた。自分でも何だか分らない種々の幻が、頭の奥に入り乱れていた。それが歩毎にゆらゆら揺めくのを、不思議そうに見守っていた。するうちに、彼はふと立止った。禎輔の様子が急に変ったのを感じたのである。禎輔はきっぱりした調子で云った。
「僕は君のことを考えたのだ。あの柳容堂の沢子と君とのことを。」
昌作は殆んど自分の耳を信じかねた。
「君が恋《ラヴ》してるというのはあの女のことだろう?」
「ええ。」と昌作は口と眼とをうち開いたまま機械的な答えをした。
「僕がそれを知ってるというのが、君には不思議に思えるかも知れないが、実はごく平凡なことなんだ。少し注意しておれば、何でも分るものさ。会社の男で、君の顔を知ってる者がいてね……君の方でも知ってるかも知れないが、名前は預っておこう。その男から僕は、柳容堂の二階へ君が度々行くということを、聞いていたのだ。そして、達子から君に恋人《ラヴァー》があるということを聞いた時、何故かそれを思い出して、実はすぐに彼処《あすこ》へ内々探りに行ったものさ。すると果してそうなんだ。……僕はこれで、秘密探偵の手先くらいはやれる自信があるね。」
それから彼は突然、非常に真面目な表情になった。
「僕の頭にあの女のことが引掛ってたというのには理由がある。あの女が彼処に出だして間もなく、今年の梅雨の前頃だったろう、会社の或る若い男が――これも名前は預っておこう――あの女に夢中になったものさ。僕も二三度引張って行かれたが、あの女には確かに、プラトニックな恋《ラヴ》の相手には適してるらしいエクセントリックな所があるね。そのうち二人の関係は可なり進んだらしく、一緒に物を食いに歩いたりしたこともあるそうだ。所が可笑しいじゃないか、愈々の場合になってあの女はその男をぽんとはねつけたものさ。何でも、私はやはり……、」そして禎輔は、其処につっ立てる昌作の顔をじっと見つめた、「やはり宮原さんを愛しています、というようなことでね。」
昌作は立っておれなくなって、長椅子の上に倒れるように腰を下した。
「このことを君はどう思う?……僕は宮原という男とあの女との関係をよくは知らない。君はもうよく知ってるだろうが……何でも宮原という男は、子供のある妻君を追ん出してまでおいて、そのくせあの女と一緒にはならずに、而も往き来を続けてるというじゃないか。二人の間には常人には分らないよほど深い何かの関係があるものだと、僕は思うよ。それからまた一方に、あの沢子という女は、胸の奥底は非常にしっかりしていながら、精神的に……或は無自覚的に、可なり淫蕩な……というのが悪ければ、遊戯心の強い女だと、僕は思うのだ。僕の会社の男が引っかかったのもそこだ。……それで、僕は君のために心配したのさ。君の方で次第に深入りしていって、最後に、私はやはり宮原さんを愛しています、とやられたらどうする?……或はまたうまく君達が一緒になったとした所で、あの女の心に宮原のことがいつ引っかかって来ないものでもない。手近な例はこの僕自身だ。頭の隅に放り込んで殆んど忘れていた遠い昔のことが、ごく僅かな機会に、全く何でもない場合に、ふいに僕を囚えてしまったじゃないか。ましてあの女と宮原とは、僕みたいな古い昔のことでもないし、そんななまやさしい関係でもない。心の奥まで、魂の底まで、深く根を下してる何かがあると、僕は思うのだ。……このことさえ君が分ってくれれば、他のことはどうでもいい。僕と君のお母さんとの話なんかも、嘘だったとしてもいいさ。ただ僕は君に、盛岡の二の舞をやってくれるなと、老婆心かも知れないが、切に願いたいのだ。こんど変なことになったら、君の生活はもう二度と立て直ることはないだろう、という気が僕にはする。」
昌作は咽び泣きが胸元へこみ上げてくるのを覚えた。身体中が震えた。そして叫んだ。
「そうです。此度躓いたら、私の生活はもう立て直りはしません。まるで暗闇です。何にも私を支持してくれるものはないんで
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