由にさしておいてくれた。故人の旧友で、語学教師であり飜訳家である木原さんが、正夫を一同に一人一人紹介してくれた。正夫は果物をたべ、サンドウィッチをつまみ、酒も一二杯なめた。そしてもう十二時近い頃だったろうか、階下の奥の室の縁側で、真暗な庭の方をぼんやり眺めていると、木原さんがやって来た。木原さんは正夫の肩に手をかけながら、故人のことを話しだした。故人は近年、あらゆる意味で宙に浮いていたのだそうである。生活の意義を求めて得ず、道徳の根拠を求めて得ず、女性の魂を求めて得ず、而もそれらの追求は、一種の漠然たる恋愛的観望の形となり、その観望がいつまでも満されないために、人間や社会に対する蔑視が起り、蔑視が傲慢なものとなるに随って、彼自身は宙に浮いてしまったのだそうである。そんなこと、正夫にはよく分らなかったが、木原さんはしんみりと話してきかして、それから更に声をおとして、だから、精神が宙に浮いていたから、酒に酔ってもいたろうけれど、船から海に落ちるようなことになったのである……。その声があまり静かで、宙に漂っているようだったので、正夫はうっかり、率直に独語した、いいえ、お父さんは自分で海に飛び
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