と、ベッドがあった。電燈に覆いがしてあるので、水の中のような明るみだった。母は昏々と眠っている。息をしているかどうかも分らない。右手を布団の外に敷布の上になげ出していたが、その細そりした透いて見えるような手先が、ひどく美しく可愛かった。その手だけが、母の臨終についてのはっきりした印象だ。親指を掌の中に、そして他の指先も少し縮ませて、その手先だけを、手首のところからひょいと上げてとんと落し、丁度手の甲で敷布の上をたたくように、とんとんと二度ずつ、間をおいて動かしていた。何か合図をしてるかのようでもあれば、だるいのをごまかしてるかのようでもあった……。
 正夫は心の中で、二つの手の動きのことを考えるのである。仰向にねそべって、両手を投げ出し、掌の方を上にして、すっかり力をぬいてしまう。そして時々、ぎゅーっと指を握りしめ、何かの努力か痙攣のように、じりじり手先をもちあげ、次にばたりとまた投げだすのだ。或は、指先を心持ちまげて自然にしておいて、時々、手の甲でとんとんと、何かの合図かだるい戯れかのように、手首を動かしてみるのだ。前の場合には、手先が驚くほど大きく重く、後の場合には、手先が驚くほど
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